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「質屋の風景」 第六冊
 

2022.11.17  質屋横の郵便受けにチラシを入れる

当店は現在、新たな質預かりをしていません。買い取りだけです。それがもう少し売りに来るお客さんがあると思いましたがほとんどありません。コロナ禍のこともあるでしょうが毎日ひまなことです。ひまですから今は「この町の風景」のページをしています。しかしそれもネタが続かなくて記事執筆に大学生アルバイトを募集しました。

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大学生アルバイトを募集します!

『 募集要項 』
大学生、若干名。
記事の執筆。「この町の風景」 www. に載せる原稿です。
原稿とそれに関連した画像12枚を、月に5本メールで送信。
採用の本数にかかわらず1か月5000円(消費税込み)を支払います。
1
か月単位の募集と支払いです。

・・中略。

大学生なら視点が変わって面白い記事が書ける、あるいは新しい発見があるかも知れないと考えアルバイトを募集しました。バイト料が低額で幾らにもなりませんが外部ライターの気分で原稿を書いていただいたら学生さんの勉強になるかも知れません。以上です。
「この町の風景」 WWW.
枚方市岡東町1-11 橋本洋介 (橋本質店)
TEL
 072-845-0200  E-mail

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このチラシ(ビラ)を先月刷りました。どうして配ろうか考えていましたところ、毎月に質屋組合支部の会計さんが集金に来てくれるので、たまには当方からお持ちするのもいいと考え、それで大学近くの質店ですので、ついでに「大学生アルバイト募集」のチラシを持っていって近くの学生が住んでいそうなマンションの郵便受けに入れて歩きました。

それから支部会計さんの質店に入り組合のお金をお支払いし、「このバイト募集のチラシを横のマンション郵便受けに入れてもいい?」と訊きました。気のいい兄ちゃんは「いいすよ」と言ってくれるので入れました。その質店の賃貸マンションです。チラシには橋本質店の字があります。このチラシ
は店名を入れた方が学生が安心するだろうと考えましたが、まさか他の質店横のマンション郵便受けに入れるとは考えてなかったです。

しかし時代は変わったとつくづく思います。昔は質店の広告について、質屋同士に縄張り意識があり、近くに「質」の看板を出したとか、いやぁ挨拶がないとか、ここの駅の広告はどうやとか、店の前の電柱に広告が上がってるとか、いやぁセカンドオピニオンやがなとか、昔はほかの支部ではいろいろあったと聞きます。今は若い質店主に、ひまやからこんなんやってんねん、横の郵便受けに入れてもいいと訊いて、・・いいすよ、です。

 

  

2022.09.23   小説 質屋の何々何々

このページにいつか書きたいと思うことがありました。しかし書けませんでした。その書けない理由は、普通、人は自分の欠点を言われたり文章に書かれたりすると反省したり落ち込んだりします。しかしそれを逆に喜ぶ人がいます。普通の人には毒になることが、逆にそのような人には栄養になります。ですから書けばその人間を喜ばすだけです。それもアホらしいです。

「毒」は普通は生物にとって害を及ぼしますが、しかし深海には熱水噴出孔から出る有毒の硫化水素を食べて生きている生物がいます。それが地球生命の起源だとする学説があります。書きたいと思います「質屋の何々何々」の筋はつまり毒を栄養にしたような話しです。そして質屋の風景にはこんな風景もあったという小説にする方法が考えられます。・・・しかし仮に小説にしても、これはどう書き進んでもサイトに上げられません。

それにそもそもこの話しは普通は小説にもドラマにもならないです。例えばトルストイのアンナ・カレーニナにしろ、それは美しい人が出てくる物語です。ですからこれは小説にも何にもならないんです。だれもこんなアホな物語は読まないでしょうから。仮にそんなアホな話しが質屋世界にはあったという小説の形にしても、その本は売れないです。

文章を書くことについて、昔に習いました偉い先生は漱石を引いて「真善美荘」を言われました。その先生がある時にカルチャー教室に習いにきた20代の女子に、こんな小説を読んだかと問われました。そしたら女子が自分はもっとブルーな小説が読みたいと答えました。そうしますと先生が、「文学には毒がある、その毒を少しは舐めてみんと」といわれました。

私はおもしろい言葉だと思い、一緒に習っていました京都のタイル屋さんが、たまたまその日は教室を休んでおられましたので、馬場先生が教室で「文学には毒がある、その毒を少しは舐めてみんと」と、言われましたと報告がてら手紙を書きました。そうしましたら、先生らしいと笑ってられたです。

私にも馬場先生が言われたこの「毒」というものが分かるような気がします。善いこと、美しいことだけでは人間は学べないし成長しないです。成長には毒も必要です。先生は明るい女子に対して、君も少しは難しい本を読んで成長していき。そうしたらもう少し読むに値する文章が書けるようになる。そう言われたのだと思います。

確かにそのように毒には有用な面があります。しかしやはり毒は毒です。特に自分に関係したことになるとしんどいです。その場合は「毒」が文字どおり自分に害を及ぼします。気分が悪いです。私は気分の良いことを考えて、気分の良いことを書いて、気分良くいたいです。ですから「小説 質屋の何々何々」は書けませんでした。

 

 

 

2022.06.18   質屋ロック

6月9日の朝日新聞朝刊コラムを読んで「ロックの日」、6月9日を知りました。同じ調子で7 月8 日は「質屋の日」も取り上げてくれないかと、そんなことを考えました。それは以前、この質屋の風景の「H 27.11.29 記 質屋と坊さんのコラボ その2」を読んでまして、これはもしかしたらロックでないかと思ったことがありそれで「質屋の日」もと連想しました。

今も上手く文章が書けませんが、その時も文章にならず、頭に浮かぶ脈絡のない言葉を連ねました。それでもロックのことは思ってなかったです。何年かしてから読んで、つまりこれはロックじゃないかと。音楽のロックの定義は知りませんが、熱い思いを歌う、そうしたことであるなら、「質屋と坊さんのコラボ その2」の一部は質屋ロックの歌詞になります。例えばこうしたところ。

『 こんなもんにいつまでも利息払てどうするの。もう流しいな。
2ヶ月に一度の年金は自分が生活するためにあるんやないか。
もう2年も入っているいうことは2年間この品物が、
要らんかったということや。それを利息払うてどうするの。
たとえ千円でも、もったいないやないか。
なに考えてるねんな。
いつまでもあると思うな親と質屋。』

これは質屋のお客さんに対する愛です。お客さんの為を思い、いつまでも利上げしてないでもう流しいなと言っているんです。質屋の利益に反することです。今のように金が極端に値上がりした時代は別ですが、普通は入質品が流れて質屋が儲かることはありません。毎月利息をもらっている方が質屋はいいんです。

もう質屋を辞めていきますので10年ほど前のことを書いても問題ないでしょう。普通は質屋が質流れ品を整理して古物市場で売って凸凹はありますが全体では原価(入質額)からほとんど利益が出ないです。と言うより、そのような高い質預かり値を付けないとお客さんが来ないからです。

お客さんが入質された品物を買われた時は消費者ですから高かったでしょうし、また品物に思い出があり手放したくない気持ちがあるのでしょう。ですから買取店に売らないで入質して流れないように利上げされているんでしょう。ですが品物はすでにお金になっていますし、上に書きましたように質屋も流れ品で決して儲けるわけではありませんので、流されるのも正解ではないかと思うのです。

以前は年金日にご婦人のお客さんが利上げに来られました。コロナの前はパートに行っていて、例えば一日4時間働いて時間1000円として4000円です。それで質屋に1000円や2000円払ったらもったいない話しです。もちろん本人はそれでいいんです。パートに行ったら人と話しができますし、質屋に利息を払いに行くのも実生活感があっていいんでしょう。

昭和の終わりの大阪質屋業報に載った組合座談会にこんなのがありました。(正確でないです。間違ってたらすいません。)座談会で組合員が、質屋は流さずに利息を貰うのがいい、牛のしょんべんみたいなのが、と。こんな発言がありました。私は若い時に読んでいて笑ったです。対して、平成の終わりの質屋ロッカーは、「もう流しいな。」と歌ったんです。

 

 

 

2021.12.27   質屋のオフィシャルサイトとパブリックドメイン

質屋のホームページを検索しますと中に「公式」の見出し字があります。オフィシャルサイトのことでしょうか。意味をネットで調べますと組織・団体や著名人などが自らが運営主体になっているウエブサイトとあります。この「質屋の風景」も著名ではありませんが自分で書いて自分で載せていますからその意味では公式です。各冊の末尾に文責・橋本洋介と書いています。

他にパブリックドメインという言葉があります。ネットで調べますと公有の(財産)、公知の(情報)、という意味の英語表現。知的創作物について、その財産権が誰にも帰属せず社会全体で共有されている状態とあります。広く一般に開かれた情報の意味のようです。またパブリックの対義語は「プライベート」ですとも書いてあります。

この「質屋の風景」は全て自分が50年質屋をしてきてその中で知ったことをベースにしています。その意味ではプライベートです。しかし実際のことをその通り書いたら文章がきたなくなるので変えてることがあります。例えば第1冊の「しまった!」で息子を物静かな青年としていますが、実際はこの青年の行為には問題があります。他にも内容がひどくならないように事実を直している箇所があります。

グーグルで「好きな質屋」「一番面白い質屋のホームページ」を検索しますとこの「質屋の風景」の第一冊が当たります。それはつまりグーグルの A I がこのページをパブリックドメインと認識しているということでしょうか。そうであるなら理由の一つは文章の内容がきたなくない、特別に誰かを否定していない、攻撃していない、からではないかと思います。

それを別の角度から言えば、特にどうでもいいようなことを書いているのかも知れません。そう考えることはできます。自分も長く質屋世界にいていろいろなことを知っていてプライベートな知見として思うことはあります。しかしそれをそのまま書いたら検索で引っぱってきにくくなるでしょうね。

しかしちょっと書いてみたい気持ちはあるんです。年末ですしサービス感覚で。例えば質屋の不倫なんか。
これはもう40年も前に聞いた話しですが、ある質屋が不倫していて、そしたら相手の女性が店に入ると言い出したんです。しかし店といっても家で、家には嫁はんも子供もいる。それでおっさんうろがきて、えらいことになった、と。

この話しをした質屋と一緒に笑ったです。人の不幸の話しは面白いです。それから10年ほどしてある質屋の告別式に行くと、その不倫してた質屋のおっさんが私に近づいてきて、橋本くん、あの女性なぁー、会社員と結婚したんやぁ。それがなぁ、電話を架けてきてなぁ、会いませんかと言うねん。橋本くん、橋本くん、会うということは・・ということか?

・・しらんがな、そんなことは。ないやねんなぁ。もおー。自慢したいのんかいなぁ。広報部で編集して業報に載せろとでも言うのんかいなぁー。「特集、質屋の不倫!」「覆面座談会、その実際と後悔」・・まさか。ないやねんなぁ。・・昔はこんな質屋のおっさんがいたんです。もう鬼籍に入って久しいですけど。

ある世界を50年歩いて来たということは、右足と左足を互い違いに出してきました。歩いた地面には様々な地層があります。表面はアスファルト舗装でも下の土はいろいろです。大阪湾の I R の用地でも土質改良が必要らしいです。森友学園の問題の土地でもそうでした。どちらもある時代に公が埋め立てた土地です。その時代はその土で埋め立てて問題なかったんです。

書くことについて何をどう書くかを考えます。昔に習った先生は漱石を引いて「真善美荘」を言われました。しかし私には遠いです。先生すいません。これは一つの考えですが、書いて載せて、それをグーグルの A I が検索で引っぱってきたら、それは最低限パブリックドメインになりますね。

 

 

2021.11.27   質屋の創業年について

当店のホームページの店舗(INTRODUCTION)の創業年が本当はもう2年ほど早いのでないかと聞かれることがあります。
創業年(父親が質屋を始めた年)は、私の若い時には昭和24年3月1日にしておこうと家でそう決まっていました。それで1995年10月にホームページを作るときに橋本質店の創業を昭和24年にしました。この経緯は質屋の風景になると思いますので書いてみます。

昭和45年頃のこと、京都府八幡市での橋本質店は母親が質屋営業者で長兄と私が家業の質店を手伝っている形でした。私が店で質預かりして、その品物が贓品であった場合に警察は実際の質取引業務者の私から供述調書を取ります。それで刑事さんの聴き取りに対して、私は・・と答えて、生年月日を言います。続けて刑事さんがこちらのお店はいつからですかと聞かれます。その時に長兄が留守で母親に聞いたらあやふやであんたの生まれた頃やと言うので適当に答えていました。しかし調書によって年月日が違っていてはいけないので、創業年は昭和24年3月1日と答えることに長兄が決めました。

年度のことはよく4月1日からを言いますが、それが3月1日であるのは、調書では私の生年月日、昭和24年3月〇日を先に言っていて、その後に創業年を答えるので、そしたらこの店の歴史みたいやないかと刑事さんが笑われることがあり、そうした話しの流れが当時私が店の商売を手伝う方向になって母親が喜ぶから、それで家で創業は昭和24年3月1日とすることに長兄がしたのだと思います。(@注、下記)

その当時に調書を取る京都府田辺警察署の刑事さんが、こちらのお店はいつからですかと聞かれたのは、今に考えてますと質屋創業の時を聞かれたのでなく、質屋を始めた父親が亡くなって母親の名義に代わった時点を聞かれたのかも知れません。しかし質屋の許可証の提示を求められたことはなく上記のように答えていました。その当時の私の供述調書がもし公文書として残っていましたら八幡市の橋本質店の創業は昭和24年3月1日に何枚かなっているはずです。

ここ大阪府枚方市岡東町の橋本質店枚方駅前店は昭和63年に私が始めましたので、質屋営業許可年と同じです。各質物台帳の最初の「此帳簿紙員200葉」の下に質屋許可年月日と大阪府公安委員会番号を記しています。この店では最初からそうであったか思い出せませんが、思い出せる範囲では贓品が出て大阪府警の刑事さんが調書を取る場合には質屋許可書の提示を求められました。それで古物商の許可証と一緒に倉の引き出しにしまってあるのを出してきて見せました。昔の八幡市の橋本質店のときに調書作成に質屋営業許可書の提示を求められなかったのは、それは京都府警と大阪府警の違いなのか、時代の違いなのか知りません。

質屋営業許可のことですが、個人営業の場合は質屋の主人が死亡すると許可が無くなります。それで遺族の名で新たに許可を申請します。その間はお客さんが来られても新しく質預かりすることはできませんし、前に質預かりした品物が流質しないように利息を持って来られても利息として受け取ることはできません。新たに許可が出るのを待つことになります。

しかし要件の質倉は昔のままで不備があるとか、しかしそれを今さら建て替える言っても借家であったり建ぺい率のことなどあり建ちません。しかしだからと言って、そのまま質預かり品が宙ぶらりんのままでは質屋もお客さんも困ります。これは昭和50年ごろに京都の質屋から聞いた話ですが、そういう場合はその質屋(申請者)の日頃がよければ、行政も何とか許可を出してくれることがあるらしいです。お上(おかみ)にも情けはある!です。

2020.05.18 に書いています「棚屋」のことですが、今はネットで検索しても質屋らしいものは出てきません。それは一つには無許可(無届)の質屋のことだったからでしょうか。つまり「もぐり」であって良くないから、その後に人が話題に出さなかった。だから棚屋は言葉として残らなかったのかもしれないです。分かりませんけど棚屋があったことは確かです。

前にNHKのBSでフランスの質屋のことを放送していました。フランス革命の後に質屋がたくさん出来たらしいです。その質屋とは民家の部屋に棚をかいて品物を預かる、そんな質屋のことでしょうか。それがあまりに増えて取り締まる必要からナポレオンが個人では出来ないようにした。だから今でもフランスでは市町村の組合、あるいは信用金庫が貸付の一部門として質屋をしている、そんな番組内容でした。

また質屋を「土倉」と呼んだ時代がありました。今でも土倉はネットで検索すると質屋に関係した語として出ます。昔にそう呼んだ歴史的な言葉として残っているんでしょうか。
ただ私の若い時に京都の質屋の先輩(昭和一桁生まれ)が、あるところで自分の商売は質屋だと言うと、土倉ですかと言われて、土倉と言うのは質屋を悪く言う言葉やから注意しいと叱ったという話しを聞いたことがあります。土倉は悪いイメージがあったようです。

これは質屋のことではないですが、昔は「くにゅう」と呼ぶ職業がありました。「口入れ」とも書いて仲介や斡旋を生業にする人のことだったでしよう。今でも「くにゅう」はネットで検索したら当たりますが、昭和45年ごろ京都府警の若い刑事さんが当店の質取引人名簿のお客さん職業欄に「くにゅう」と書いてあるのが何の職業か分からなくて、「橋本さん、くにゅう、て何ですか」と聞いていました。不動産屋のようなものですと答えていましたが、私の子どものころに大人が使っていました、「くにゅう」の言葉には単に今の不動産屋と同じでない、ある種の?何でしょう?危なさでしょうか?・・よく解りませんが、しかし何かありました。こうしたことはある時代、ある土地の感覚でしょうけど。

「質屋」の語の範囲は広くて長くて深いです。引っぱってくるイメージはものすごく多いです。未だに日本の質屋の起源は700年とも1200年とも議論があります。一質店の創業年のことなど、父親が始めた年が戦後の2年やそこら前でも後でも、そんなことはどっちでもです。

(@注、父親が質屋を始めたのは本当はもう2年ほど早いという話しは昔に聞いたように思いますが、どちらにしても私の生まれる前のことですから知りません。)

 

 

 

2021.10.27   質屋を思い浮かべて欲しい

昨日の文章の最後の方で、私が昔に京都質屋業報に載せた文章のことを書きました。その内容は、質屋が組合に一番望んでいますことは、人がお金を必要とする時に自然と質屋を思い浮かべるような、そうした環境を質屋組合に作って頂きたいということでした。

うろ覚えでその文章を再現しますと、
「上品なお客様から、30万円でダイヤモンドの指輪を質預かりする。無理を言わない、流れるの待ってと電話も架けてこない。毎月きっちり利息を払って下さる。そんな良いお客様がたくさん欲しい。・・・もちろん質屋としてそんなお客様がたくさん欲しいですが、そんな贅沢なことを質屋は組合に望んでいるのではありません。組合員が組合に望んでいますことは、お金を必要とする人が自然と普通に質屋の利用を思い浮かべるような、そうした環境を作っていただきたいと言うことです。そのお客様と実際に取引して儲けるかは、それは個々の質屋の問題ですから。」

この文章が載った京都質屋業報が出て半年ほどして、それがどこでだったか思い出せませんが、当時の全質連の会長さんが挨拶された時に、「人がお金が要りような時に質屋を思い浮かべるように努力したい」と、そのようなことを言われました。私の書いたことに答えて下さっているように思って驚いた憶えがあります。

その時に思いましたことは、京都質屋業報は何といっても当時の理事長の杉本善兵衛さんのお膝元の業報ですから、質屋業界で一番偉い東京の全質連の会長さんが杉本さんに敬意を表す意味で気を使って答えて下さったんだと思いました。そしてその、普通に人がお金が要りような時に自然と質屋を思い浮かべるようになればという考えは、今も質屋にとって変わらない思いではないでしょうか。

 

 

 

2021.10.26   手を離されたら終わり

カルチャー教室で習いました馬場先生は朝日新聞のコラム「天声人語」を書いておられた時代がありました。吉田茂の国葬を書かれた時のことで、新聞社の部屋のテレビ画面に、国葬の車列が国会議事堂の前を全て青信号で進んで行くのが映っていて、窓の外を見ると有楽町の映画館に宣伝が掛かっていて、そこの横断歩道を人が渡っている。それを見て、すぐに明日の天声人語に書いたと。

見て思ったところを直ぐに書くことが必要で、パッと見て、スカッと書かなくてはいけないんです。先生は天声人語を書いて、夕刊の標的を書いて、他にも書いて、朝日新聞の長い歴史の中でも書いた本数だけで言うと(文章の出来のことではないですよと念を押されて)、単純に本数だけでは自分は5本の指に入る、それほど書いたんですと。

ところが君たちは何だと。つまり馬場先生のお話はそう言うことでしょうか。先生は大学で学生の作文を読まれ、他の関係できた原稿も読まれ、また出版社の、もう一次審査は終わっていて、それでもまだこんなにある、それもまた読まれ、だから普通はこれだとここで指を離して、次のを読むねん。しかしこの教室では特別にもう少し読むわと、こんな調子でした。

確かに原稿は手を離されたら終わりです。その先でどんな良いことを書いていても、そこまで読んでもらえないですから。ですからグーグルの検索でこのごろ「好きな質屋」「一番面白い質屋のホームページ」で質屋の風景の第一冊が当たりますが、当たっても読んで面白くなかったら他へ行かれて、その先はもう読んでもらえないです。それは確かにそうです。しかし思いますのに、先ず当たることは大事です。手に取ってもらわないと何事も始まりませんから。

(・・・この文章をここまで書いてきまして、私は昔、このような意味のことを京都質屋業報に書いたことを思い出しました。文章があっちゃこっちゃしてすいません。このような書き方が一番いけないんです。文章に瑕疵があったらいかん。そこで手を離されるからと先生は教室で言われました。最初この続きに書いていました文章は、どうしても内容が上手く繋がりません。それでこの下の文章は切り取って別建てで明日付けで載せることにします。)

 

 

 

2021.10.07   続々々々、組合業報誌のこと

私が行きました朝日カルチャー教室は馬場先生がまだ現役の論説副主幹の時代からされていたようです。以前から長く教室で習っている人がいました。その中に京都のある建築資材の問屋さんで作る協同組合の業報誌を編集している人がいました。

その組合はもともと組合員は10数軒で当時、実質的にもう機能していなくて、しかし親睦を兼ねて続いていて、その組合業報誌の記事を1人で書き、編集、印刷、発行、また他の都市の同じ業種の協同組合にも送り、それらを全て1人でしておられました。

取材したり記事を書いたり、編集や印刷、挨拶状を書いて送ることなどがお好きなんです。前はイナックスの社長にインタビューして記事にしょうとしたら、自慢話しばっかりしよって面白くないので記事にしなかったことなどをお聞きしました。また大学時代の仲間と何十年も仏教勉強会のようなことをしているとも、また先日は後期高齢者になったと言って笑っておられたこともありました。

もう亡くなられてずい分になりますが、一度作られた業報誌を見せてもらったことがあります。8ページほどの白黒印刷でした。中にペンネームで書かれた面白い創作がありました。その話の運びが最高に面白くて憶えていて、一部をここ書くことはできるのですが、・・しかし考えてやはりやめます。

私はこの創作を読んだときに、ここに同業者で作る協同組合業報誌の理想を思いました。テンポがよくて知性があって、楽しくて明るくて、明日も仕事を頑張るぞーという前向きな姿勢が出ていて素晴らしかったです。

ご自分は京都の建築資材の問屋さんの二代目か三代目です。ご自宅を兼ねた3階建ての社屋に一部の資材をまだ置いておられますが従業員はなく、店は自分の代で終わるおつもりでした。経済的に豊かで、知性があり、反骨で正義感の強い人でした。

前に内田樹の本に、第一次世界大戦の始まるまでのヨーロッパの都市に、貴族ではない大地主でもない、しかし豊かで教養ある一群の人たちがいたと書いてありました。その人たちを何とか言うと書いてあったのですが、それが思い出せなくて、ネットで調べるのですが出てきません。たしか探偵のポワロや、シャーロックホームズはそうした人をモデルにしていると書いてあったように思うのですが、確かでありません。

それで前に書きました「質屋のしのぶの物語」ですが、「しのぶ」に代わる新しい質屋像を考えますのに、どうせ無理筋で架空の物語ですから、ポワロやシャーロックホームズの原型になったような人物を質屋組合業報誌の特命記者にして、質屋像を創るのも面白いのではないかと思いました。

 

 

2021.09.23  続々々、組合業報誌のこと

質屋の風景の第一冊のページに、「質屋業報の1冊をある先生に読んでいただいたら、『 このバックナンバーは質屋はんの出てくる小説書く下調べにいいな 』といわれました。」と書いています。そのとき馬場先生は同時に、業報に載ってます私の書いた文章について、「この二年ほどの間に読んだ文章の中で一番良い」と褒めてくださいました。

その号を今さがすのですが大事にし過ぎたのか出てきません。おそらく私が編集した最後の京都質屋業報 95号だと思います。文章は交友会市場の木村さんの追悼文でした。これを書いた時に自分でもこの文章は何か出来が違うと思いました。私の一生に一度の文章です。

文章を習いにカルチャー教室へ行くと言いましても、先生に書き方を教わるようなことはありません。ただ一度、 1999.10.12 に載せています「質屋の組合と質屋像」の上半分ほどの原稿を先生に読んでいただいたことがあります。そうしましたら、「君はへたやねぇー!」といわれて、それでガクッときて、書き直してから UP しました。「質屋の風景」の中で読んでいただいたのはこの1本だけです。(@注、下記)

ですけれども、今に質屋の風景の文章を読み返して思いますのは、先生の教室に行ってたころに書いた文章が自分で言うのも変ですが良いです。
文章を習うといいましても月に2回の教室です。教室では物事の見方や考え方を教わるので先生の話を聞いているだけです。文章を習うということはそういうことなんですね。それは当時編集していた京都質屋業報にも反映しているかもしれないです。

馬場先生が大学生の時に桑原武夫さんに、馬場君、講義の内容を特別に控えてくれ、費用を出すからと言われました。その話をカルチャー教室でされた時に先生はもう十分に偉い人で学生時代からは50年も経っていました。それでも桑原武夫さんに特別に声を掛けられたことがまだ嬉しいのです。先生はその学生の時の逸話を嬉しそうに話されました。

(@注、最初この1本だけですと書きましたが、 02.12.25 の携帯的多弁や 02.11.10 ダイヤモンドが柔らかく・・などもその一節を教室で先生の机に出して講評していただいたことを思い出しました。それから文章を膨らませて質屋の風景に UP したのでした。)

 

 

 

2021.09.12   続々、組合業報誌のこと

前に書きましたように、ある時に京都質屋組合の業報誌を編集をするようになり原稿が当方にFAXで入ってきました。その余白に「てにおは」を直しておいて下さいと書いてあります。しかし私に広報部員が書いた原稿を直すような知識はありません。それで何でも勉強するのはいいことだと思い朝日カルチャーの文章教室に習いに行きました。

教室で先生に自分は枚方市で質屋をしています。親の時代は京都の質屋でしたので今でも京都の質屋組合に入っています。その組合の業報誌の編集するようになり、文章の勉強に来ましたと言いますと可愛がって下さいました。

馬場先生は当時は大学の教授でしたが元は朝日新聞の論説副主幹だった人でした。論説委員は書いた原稿を他の人がチェックしてから出すらしいですが、副主幹になると書いた原稿をそのまま出せるらしいです。しかし先生は副主幹の時代にも必ず論説室のだれかに読んでもらっていたと言われました。

カルチャー教室の生徒は25人ほどで、大学生、大学の先生、教師、公務員、会社員、哲学を研究している人、定年後に勉強に来ている人、主婦、老婦人、個人経営者などでした。文章を習うと言いましても、別に書き方を教わるのでなく、授業の始まる前に先生の机の上に、自分の何かの考えを200〜400字ほどに書いて出し、その中から先生が4〜5本を声に出して読まれ、先生の考えを言われ授業が進んでいきました。

時々、○○さん、この意見をどう思うと聞かれることがありました。しかし人により考えはまちまちです。別にこれが答えというものは無いんです。しかし私には全体によく分かりました。ある生徒が政治のことについて必死に意見を書きましたが、しかし先生は政治というものは分からんもんやからと言われました。

先生が現役時代に新聞に書かれたら何百万人の読者が読みます。しかし書かれなかったら読まないです。ではその書かれることの基準は何なのかどうしても知りたくて、あるときそれは何ですかと書いて先生の机に出しました。
次の授業でその返答でした。夏目漱石が文章を書くことについて「真善美荘」と書いています。それは真理(真実)であるか、それは善きことであるか、それは美しいことであるか、そうは荘厳な、の荘です。漱石は小説も良いが論考も良い、と。

今も岩波の漱石全集をネットで調べますと全28巻です。小説の「明暗」が11巻で、後は小品、評論、俳句、書簡などで論考が多いです。先生は大学でもカルチャー教室でも本を読め、本を読めでした。先生は読書家としても有名でときどき大平正芳が、何か良い本(小説)がないかを聞いてきたとおっしゃってました。

また教えておられる大学のゼミ生が教室に来ることがありました。カルチャー教室は普通は3ヶ月分の授業料を払って受けますが、一回幾らでも入れるんです。それでその学生は受付で一回分の授業料を払って入っていて、先生がそれはもったいないから次はここへ来ると言って通っといでと言われました。

その偉い先生も体調をこわされて休講が増え、病気されて教室がなくなりました。何年もしてから新聞に亡くなられた記事が載っていました。その先生の経歴に論説副主幹や大学の教授以外に公職も載っていました。偉い先生に教わるには特別な大学へ入らないといけないことが多いですが、私は幸運にもいいカルチャー教室へ行ったんです。

先生は若い学生が好きで、根っから教えることの好きな人でした。後日、同じ教室で習っていた人に、橋本は教室へきて最初の自己紹介で、質屋組合業報誌の編集のため勉強に来ましたと言ったのが、先生の印象を良くしたのでないかと言われました。「質屋組合業報誌の編集者」も、いいことがあるんです。

 

 

 

2021.08.18   続、組合業報誌のこと

私が京都質屋協同組合の広報部に入った当時(昭和47年どろ)は組合の中で広報部の地位は低かったです。それが理事会の記事を書くのに部員が理事会に行く必要がありますから部員が上の人に言って広報部長は自動的に理事になるようになりました。

以前から東京業報の編集発行人は組合の広報部長さんです。大阪業報の発行人は今は理事長さんになっていますが、昔は確かその時代の広報部長さんだったように思います。しかし前の京都業報の発行人は昔から理事長の杉本さんでした。

ある時代に私が京都業報の編集をするようになり、原稿を集めて組合事務所に送りFAXでゲラが返ってきて、それから事務所が印刷会社に頼む仕組みになっていました。それがある時、私の書いた原稿が、組合から帰ってきたゲラでは結論がコロッと反対になっていました。事務長が変えたんです。

事務長に電話しますと、理事長に電話してくれと言われました。理事長の杉本さんに電話しますと、業報の発行者として、この巻頭言は止めると言われました。
今その文章をどう書いたかもう25年ほど前のことで正確に思い出せませんが、結論はこうでした。組合主催の市場に荷物を集め過ぎない方が良い、こんな文章でした。その結論を事務長が180度ひっくり返したんです。荷物を集めて増やすのが良いと。(@注、下記)

先ずその当時の京都組合の背景として、組合収入が組合主催の古物市場の手数料収入に頼る傾向がありました。その古物市場を振っているのは組合員であり古物屋さんでもある広報部長さんです。極論を言えばその人が競り台から叩きだす歩銭で、組合事務員の月給を払っているようなとこがあったったでしょうか。

京都には昔から民間の古物市場(交友会)がありました。昔々その市場では荷物の多いときは十分に競ってくれないで「ほかされる」「切られる」と言いました。振り手が競り台に広げた古着を誰に幾らで落ちたと言って後ろへほかす。荷物がたくさんあって急がないといけないからですが、売りに行った質屋にしますと品物を十分に競ってくれないでほかされているように感じたのでしょう。

「切られる」と言いますのは、買い手が競り値を発し、次にそれより高い値が発されたにも拘わらず、その高い値を取らないで切れたと言って前の低い値で落とします。市場にしますと荷物が多いから、買い手は一発で最高値を発してやということでしょうが、質屋にしますともったいない気がします。

また振り手は高い値を発したのに取らなかった買い手さんに、取らんと悪いなと謝って、次に穴埋めするからと言います。しかしそれは誰の品物で穴埋めするんです。横に立っている質屋にするともう踏んだり蹴ったりです。こうして昔の私の若い時には民間の古物市場に対して怒っている質屋がいました。

しかし私が編集をした時代より相当以前から長く、もう交友会市場にそのようなことはなかったです。振り手(人)も違いますし荷物も減ってきてましたから。元もと組合主催の市場ができたのはそうした民間の市場の悪弊を牽制して正す意味があったと聞いたことがあります。
それが時代が過ぎ、今度は組合の財政が苦しいから市場の手数料収入を求めて荷を増やす方向へと組合は進んでいました。しかし何事にも一長一短があります。

私の巻頭言についての理事長さんとの電話で、この件は私に広報部長と相談してくれと言われました。しかしそれでは理事長、裁判官と弁護士が同一人物みたいな話しになりますがと言いますと、電話の向こうで、ワッワッーと笑ってしばらく咽ておられました。しかし発行者が止めると言われるのですから、他の部員に違う巻頭言を書いてもらってその号を発行しました。

後日に考えますとこれは一種のクーデター未遂のようなものです。このクーデターが失敗した一番の理由は、私の原稿の送り先が、それを受け取る事務長にとって都合の悪い内容だったことです。それはそうですね。自分の給料の出どころなんですから。それで事務長が理事長に連絡して、理事長が発行を止めますということになったんでしょう。

質屋組合の業報誌にあって組合の財政を計るのは当然のことです。この場合に組合主催の古物市場の荷物を増やす考えは正論です。しかし私は反旗をひるがえしたんですね。それはある限られた世界で、一方に片寄ると、もう一方が疲弊します。私は一方の交友会市場に味方したわけではありません。しかしこの場合に組合は荷を求め過ぎない方が良いと考えました。それは編集者の真善美です。難しい話ですけど。もう20数年前のことです。
(@注、最初に書いた文章は、荷物を集め過ぎない方が良いだったのか、組合は市場の歩銭に頼り過ぎない方が良いだったのか、もう昔のことで分かりません。)

 

 

 

2021.07.25   組合業報誌のこと

前の文章の最初に、50年近く前の編集者会議で入部当初の私の質問に先輩の広報部員4人(35〜40才)が一瞬あわてたことを書きました。そして税務署の話しになったことを書きました。あの時にそうなったことは今でも憶えています。しかし自分の書いたこの文章を10回も読んでいて、しかし本当は税務署の方へ話しが行ったのは、あの瞬間に他に理由があったかも知れないと思いました。

そのことを自分は前から気が付いていたのか分かりません。しかしいま気になりますので前の文章を変えるのでなくそちらを書いてみます。先輩の広報部員4人(35〜40才)は同じように京都の大学を出て親の質店を継いだ人たちでした。当時の京都の質屋は業績の高い人はゴルフの集まりに行き、広報部の人はどちらか言うと業績の低い方でした。

それでも広報部員4人の中で一番業績の高い人は京都の質屋の5本の指には入らなくても10本の指には入ったでしょうか。その人と4人の一番低い人とでは3倍ほどの開きがあったかもしれないです。当時既に京都市もドーナツ化現象で中心部の西陣や堀川は若い人がいなくなり、室町の糸へんが廃れ、その地域の質店の業績が落ちていました。しかし外周の西大路通りや九条通りは郊外からの客さんを受けやすいのでそれなりでした。

そうしますと同じ年ごろで同じような経歴で同じ商売をして3倍ほども業績が違うと気にします。あのときの私の質問の、毎月の質預かり額に対してどれぐらいの収入があるものですかの問いが、あの場にとって各々の質屋としての業績(甲斐性)を聞かれているようで気まずかったかもしれないです。それで一瞬あわてて1人が税務署の方へ話しを振ったのかもしれないです。

質屋の会合では、一般にお店の業績を聞くことは憚られます。このごろ質がひまですね、どうですか、あきまへんな、はいいんです。しかし具体的に業績を聞くことは御法度です。ただしこれもキャラクターで、私と同年代の部員は、「ご主人とこは億を越えてるでしょう!」と持ち上げたりしました。これは質屋をこそばしてるので、別に額に意味はありません。皆はそれを知っていますから場が気まずくなりません。だいたい市場を振っているような人は聞かなくても荷を見ただけでその質屋の籠りは分かります。プロですから。

また平成10年頃に私が「質屋の防犯」の特集を編集したときに若い広報部員が、この業報を泥棒が読んで勉強しないだろうかと心配しているようでしたと書きましたが、泥棒のことまでは心配していなくて、心配していたことは、ウィンドウの割られた写真を業報に載せることが、そのお店の迷惑にならないだろうか、を心配していたのかもしれなったです。分かりません。このように文章を書くことは今まで気がつかなかったことを気づかせてくれますし、また意識せずに事実を変えてしまう恐れもあります。

その業報ですが、例えば東京の質屋業報は中央にあって権威があり、業者さんの宣伝を多く載せ広告費を稼いでいます。全国の購読者である質屋は購読料を払い本文記事を読み、またその宣伝している会社と取引をすることがあります。この業報誌は市場経済の中で自立しています。

一方、地方の質屋組合の業報誌は経済的に自立できません。購読料は入りませんし広告料収入もほとんどありませ。昔の京都組合の業報誌はB5判の4段割で1番下の1段が広告でした。(広告料のことはタッチしてませんので知りませんが)ただ業者さんは宣伝の効果はないけど組合さんとのお付き合いの感覚で出していたのだと思います。

元もと質屋組合業報誌は社内報のようなものですから組合内に向かってで、外へ向かって出すものではありません。ですから写真を入れないで白黒印刷でホッチキスで止めてる分には紙代とコピー代だけで僅かな費用で作れます。細々とでも発行し続けようと思えば出せるものです。

また以前から組合業報誌は必要かという話がありました。昔は理事長の杉本さんの対外的な見栄でないかと言われました。他の質屋組合から業報誌をもらってますので京都組合も印刷して返さないといけない。それで自分たちは出しているのでないかと。私が広報部にいた25年の間、組合業報誌は必要かという意見はずーっとありました。

しかしこの話しを今考えてみますと、このことは質屋の社会的な必要性の話と似ています。一般に社会の中でその産業が必要なくなれば市場から消えてなくなります。市場経済の社会とはそういう社会です。しかしそうして無くなって良いとばかりは言えないという反省が、今は各方面に社会全般にあります。社会の仕組みはそう単純ではないからです。今回のこの文章で書きたいのはそこなんですが、--上手く書けませんが--、組合と組合業報誌の必要性についてです。

質屋が地方の都市で商売を続けることは値打ちあることだと思います。同じように細々とでも組合が業報誌を発行し続けることは意味があると思います。だいたい業報誌はだれでも作れます。広報部の先輩も昔の若い時に書いた自分の文章は読まないと言ってました。自分の書いた記事は恥ずかしいんです。誰でもそうです。昔から組合業報誌に文章を書いて出すことは、多少は度胸でした。

 

 

 

2021.06.28   質屋組合の広報部と青年部

私の家は京都の質屋でした。京都質屋協同組合の広報部には昭和47年ごろ入りました。毎月一度、二条城の向かいの組合事務所で広報部の編集者会議がありました。その何度目かの会議で、私が質問したことに先輩の広報部員4人(35〜40才)が一瞬あわてたことを今でも憶えています。質問したことは、普通質屋は毎月の質預かり額に対してどれぐらいの収入があるものですか。

しかしそれは聞いてはいけないことのようでした。1人がその話しは業報に書かれへん。税務署が読んでたらいかんからと言いました。そうしたらもう1人の先輩が、お前は税務署まで持って行ってるのかと。協同組合ですから京都府の商工課などの官公庁に担当の広報部員が業報を持って行ってました。それで、この人は税務署まで持って行っとんねんや!

いや、そうやないねん。税務署に持って行くわけないやん。税務署の人がこの業報を手に入れて読んだはるねん。そしたら、税務署がそんなにひまなもんかと。同じ35〜40才ですからこう言い合って笑ってわいわいがやがやでした。(他に私と同年配の人が1人いましたが古物市場へ行っていつも会議にいませんでした)

その後、平成10年ごろ京都の質屋組合の広報部員は20名ほどになり、私が特集で「質屋の防犯」を編集をしました。各広報部員の店で起こったウィンドウ破りや引ったくりの被害、また各お店の日頃の防犯意識のことを書いてもらうものでした。そしたら今度は若い広報部員が、泥棒がこの業報を読んで勉強しないだろうかと心配しているようでした。(税務署と泥棒の話しを一緒に使ってすいません。税務署さん堪忍です。)

その若い広報部員の心配はウィンドウ破りや引ったくりにしては、えらい勉強熱心な話しです。スーパーのナイロン袋を二重にして石やレンガを入れ、振り回して質屋のウィンドウをぶち割ろうというアホにしてはえらい研究熱心な勉強家なことです。
そんなことを心配しかけたら組合業報誌に何も書けないし何も載せられません。しかし京都の質屋のお坊ちゃま(年齢に関係なくお坊ちゃま)は他の組合員に迷惑をかけることが一番いかんという考えがあるようでした。後年、私が広報部を辞めて暫くして組合の業報は出なくなりました。

昔の京都の質屋では、昭和10年前後生まれの人たちは毎月ゴルフコンペに集まっていました。それと広報部の者で、後は魚釣りが趣味の人が1人いました。それ以外の人にあったことで子供が店を継ぐのに、ああなったらかなんという例ありました。詳しいことは知りませんが原因の一つは、その人は組合内に居場所がなかったからのように私には見えました。小さな組合ですから他の組合員の親もそう思っていたかもしれないです。

跡継ぎの若い子は親の意見は聞かなくても、同年配の友達の眼は気になり、意識して正します。組合員の親は子供が広報部に入って欲しいと思っていたと思います。そこへ広報部長が誘うから若い人ほとんどが広報部員になりました。それが内容ですが・・編集長の私が、若い広報部員に原稿を書いて・・・!!??△△××○○・・えぇあぁまぁ、です。

それでも一応新しい業報が出ると広報部長がホテルで宴会を開きます。出版パーティーのようなものですね。そして「橋本くん、ありがとう!!乾杯!」です。だいたいこの人は広報部より宴会部向きの人です。文章は上手くないですがカラオケは上手いですから。また質屋ですけど古物屋さんとして大きいです。今は古物市場もやっています。

昔は京都の質屋組合に青年部はなかったです。(今は出来ているように聞きます)昔なかった理由の一つは「青年部」の語感には、若い、力がある、重い物が持てる、しかし頭を使うことはもう一つ、のところがあります。対して「広報部」の語感には、何かインテリジェンスな、少なくともアホやないみたいなところがありますから。

今でもこのように言うのでしょうか。六本木や赤坂のホステスに一番もてるのが副編(ふくへん)だと。副編集長、つづめて副編ですね。青年部と言うと、すぐにホテルへ、みたいなところがありますが、副編と言うと、ちょっとインテリジェンスな、今のような季節ですと、「巷に雨の降るごとく我が心にも涙降る」、これはヴェルレーヌでしたか、なんてちょっと言ってみたりするんでしょうか。その副編はともかく、しかし組合の中に「部」とか「会」とかあってその「副」とか「委員」とかのポストがあるのはいいようです。

今回こんな文章を書こうと考えましたのは、先月に全国質屋青年会議がネットでありました。コロナ禍でWebセミナーということで、大阪組合からFAXをもらいましたので私も申し込んで当日zoomで見ました。質屋さんの生の声が聞けて面白かったです。

それで思いましたのは、昔に全国質屋広報部会議があり京都の広報部の先輩に誘われて東京の組合へ行ったことがありました。その時に先輩が言ったのは、年1回の全質連の総会は儀式(セレモニー)だ。しかしこの広報部の全国編集者会議は質屋の本音が聞けて面白いよと。確かに最初に行ったときは、ここはオフレコでという話しがあり、テープを止めて下さいと言ってました。今の会長の菊池さんがまだ上の人をデスクとかキャップと呼んでおられた時代のことです。

しかし後年に全国編集者会議も儀式になっていました。だんだんとそうなるんです。今回は計らずもコロナ禍で集まれないからWebセミナーになり生の話しが聞けてよかったです。これはやりようによったら、ここから新しい地平が拓けるかも知れません。広報部も青年部も質屋の選抜ではなく可能性であり希望ですから。

 

 

 

2021.05.26   必要なくても不可欠なもの

前に新聞の新刊本の広告に角田光代が推薦文を書いていました。そこに出版社が付けたと思います、キャッチコピーの「必要でないが不可欠なもの」がありました。そのことばが面白いので買って読みました。本は「あとを継ぐひと」、田中兆子著、光文社。

いまその本を探すと出てきました。本の帯に、理容室、老舗旅館など6つの職業現場が舞台。新しい時代の働き方、暮らし方、生き方に惑う現代人に贈る、『 6つのあと継ぎ 』の物語とあります。作者の田中兆子は本を書くのに各職種を取材して資料を集めています。しかし物語は6作とも創作です。

本の内容ですが、普通は私たちはものを考える時に、自然と今それは必要か必要でないかを考えます。しかしそれは市場経済の考え方に慣れているからで、必ずしも必要でないけどあっていいものはあるんじゃないかと。第一そこに働いている人がいるのだし。そうした話しだったと憶えます。

働く人にとっては店があり商売があることは絶対です。商売人を主体に考えますとこれは当然です。筋が通った話しです。しかし今の世の中はなんでもお客さんの立場で考えます。利用して金を払うのはお客さんですから。しかしなにも世の中、お客様の立場ばかりで考えなくていいのではないか。働いている者もこの社会を構成している同じ人間じゃないかと。自分もそう思います。

しかし現実の世界は、お客さんが必要としないものは普通は長く社会におられません。店は結構早くになくなります。その理由の一つは店は絶えずお客さんに利用してもらって利益を上げてないとテナント料や給料などが払えないからです。二つ目の理由はお客さんが買わなかったら並べている商品が古くなり、消費期限が過ぎて捨てて損になるからです。

ですから考えますのに、逆に店の維持費が要らなくて、売る商品が古くならなかったら、その店は特には必要でなくても社会におられるはずです。昔から世の中にはそうした所がありました。たとえば町にあるお寺がそうです。お坊さんには失礼ですが無くても町の人は特には困りません。また古い看板が下がった診療院などもありました。

同じように質屋も経費が少なくて扱い品が古くならないですから、町におろうと思えば、質屋はおられるはずです。ことさらに必要か必要でないかと問われれば、町のお寺と一緒で絶対に必要であるとは場合によっては必ずしも答えられないかも知れませんが、ある方が良いぐらいは言えます。

 

 

 

2021.04.29   続々々、しのぶ考

むかし若い時に質流れ品が集まる古物市場へ行きますと、競り値が安いから引く(売るのをやめる)質屋がいました。もちろん競市ですからいろんな相場があり、その時に付いた値で売る売らないは質屋の勝手です。しかし市場を仕切っている古物屋さんにすると面白くありません。それでつい、安いから引くなら高く売れてる品物も引いて持って帰れ、と。

もちろん高く売れてる品物を引いて持って帰る質屋はありません。それがです、相場を知らんということは恐ろしいことで高く売れているのに引いて持って帰る質屋がありました。その質屋が引く(売るのをやめる)理由は相場が分からないから、売れている品物を引くことによって市場や古物屋さんを牽制しているつもりでした。

目利きができない。相場が分からない。古物市場を信用していない。だから市場や買手になめられていると常に疑っている。それで売れている品物を一点引いて持って帰ることで市場や買手さんを牽制できると考えます。愚かです。商売人として失格です。あるまじき質屋です。ですがこんな質屋のおっさんが昔の私の若い時にはいました。

いろんな質屋がいました。二代目の質屋でどこまでも真面目なタイプの人がいました。またどうしても質業に馴染めないままの人がいました。また何代も続いた質屋で今の当主は他の仕事をしてお母さんや奥さんが店を守っているような質店がありました。また煮ても焼いても食えん質屋がいました。またその人を、あいつは偉いと評価する質屋がいました。

昔はしゃない質屋がいました。しかし昔はそんなしゃあない質屋のおっさんがいた割りには質屋の評判は一般的に悪くなかったです。質屋さん、質屋はんでした。それはどうしてでしょう。それを考えるのですが、日本の社会は文化や宗教が同じで、皆いろいろなことがあってこの世を生きてんねんさかいという仏教的な寛容からでしょうか。

このことを質屋から言いますと幸運だったと思います。その上手く行った理由の一つに私は「質屋のしのぶ」がいたからではないかと思います。(いや仮にそれが実際はロマンの中であっても。)世間はしのぶ的なもの(難儀に抗し気丈夫に生きる)に好意的で、しのぶのいる世界を悪く思いたくなかったからではないですか。高校生のしのぶではないですよ。大人のしのぶのいる質屋の世界をです。

こうして「しのぶ考」を続々々まで書いていますのも、質屋は万策尽きたら「質屋のしのぶの物語」を作る方向はあると私は考えるからです。その場合に「質屋のしのぶ」がドラマで人気が出るには、歳の頃なら35〜36 色白美形です。ですがそれはドラマの中の話しで、実際の町の「質屋のしのぶ」は歳の頃なら65〜75 色黒でも、それはそれでいいんです。

 

 

 

2021.03.31   日暮れて道遠し

夕日はすでに山の端に沈み見上げる空には星が出ている。
日暮れて道遠し。墓にはまだ距離がある。
昼の太陽は黄河を渡り万里の長城を越え、
今ごろタクラマカン砂漠の砂を照らしているだろう。
行った陽は戻りはしない。追いつきもしない。
ロマンである。
西へ向かって歩いて行こうではないか。
・・・そんなことでまだ昔の名前で出ています。たまにはごひいきに。

 

 

 

2021.03.17   続々、しのぶ考

このページをどのような人が読みにきて、どのように思われるか考えることがあります。そしてもしその人が再びこのページを読みにこられたとしたら、その人はきっと私の年代に近い人ではないかと思います。

私は団塊の世代で家は京都の質屋でした。高校1年に東京オリンピックでした。子供のころ見たテレビは、西部劇のローハイド、弁護士のペリー・メイスン、鉄腕アトム、エイトマン、逃亡者デビット・ジャンセン、横堀川、細腕繫盛記などでした。

こうした私が質屋の日のポスターに「志のぶ」と書いてあると、前にしのぶ考で書きましたような質屋のしのぶを思います。しのぶは歳の頃なら35〜36、色白美形になります。しのぶは社会に出ていろいろあって家へ帰る。実家の古い倉をリホームして質屋を始めます。テレビドラマでは横堀川は南田洋子、細腕繫盛記は新珠三千代でした。同じようにしのぶも苦労して商売をします。健気に生きる。自然とこうした質屋のしのぶの物語りを考えます。

これはロマンです。と同時に、誰かこんな質屋のしのぶのドラマを書く人がいないかと希望します。前のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」で明智光秀が越前の朝倉義景に身を寄せて貧し、それで奥方にこれを質屋に持って行けという場面がありました。あの場面で私は戦国時代の質屋がどんなのか一瞬興味がおこりました。これは質屋の私だけでなく全国の視聴者にもおこった意識ではないでしょうか。

このテレビドラマでは残念ながら質屋の中でのやり取りの場面はなくて店を出てきてから、あの質屋の親爺は安い値をつけると女中?が憤慨している話しでした。しかし質屋の店内のことはドラマになると思います。欲と嘘と引っかけと悲劇と喜劇と笑劇の面白い展開が脚本の書きようによって可能です。

そのテレビドラマが成功するかどうかはきっとしのぶを演じる女優しだいです。私は長澤まさみがいいと思います。AKB48みたいな女の子ではちょっと志のぶのイメージと違います。だいたい高校生では質預かりできません。やっぱし志のぶは35〜36、色白美形です。そしてこのテレビドラマが人気になって、しのぶに会いに質屋に行こう・・・。だれかこんな「質屋のしのぶの物語」を書きませんか。

 

 

 

2021.02.08   暖簾に〇質について

去年の夏ごろに気が付いたことです。グーグルで「一番有名な質屋」を検索すると当店が1位で当たりました。またある日ためしに「日本で一番の質屋」を検索したらこれも1位で出ました。これは当店のトップページの「橋本質店は日本で初めて1995年10月に質屋のホームページ・・」をからグーグルのAI が引いてきたからでしょうか。

こうなりますと「一番の質屋」で1位に当たってますので緊張して簡単に書けなくなりました。しかし最近は検索しても出なくなり、それで楽にして前から気になっていたことを書きたいと思います。それは当店のホームページの「暖簾〇質」を見て古い(ダサい)と感じる人があると思いますが、なぜトップページのデザインにこれを使ったのかその経緯です。

この「暖簾〇質」のデザインは最初は当店の開店チラシに使いました。そのチラシを後年にインターネットのホームページを作るのにSEと打ち合わせして使いました。
質屋の開店にこのデザインを使いました理由はここで1988年に橋本質店枚方駅前店を開業した時に私はもう40才近かったです。店はゼロからの出発で、先で60歳になってから商売がピークを迎えても面白くない、できれば50歳代でと言う人がありました。しかしそうしますともう10年ほどしかありません。しかも店は大道に面しているわけでも電車から見えるわけでもなく、細い道の奥です。ですから何が何でも早くここに質屋があることをお客さんに知ってもらわないけません。

今の質屋は二代目や三代目が多いでしょうが、そうした場合は大学を卒業して一度社会に出て30才ぐらいで家に帰って質屋を継ぐ形でしょうか。その場合はスタートから質店があり質のこもりがありますから、20年後の50才の自分の質店のデザインを最初から考えられます。しかし私の場合はゼロからですし、まず食べていかなくてはなりませんし、格好もなにも、ともかく質店を知ってもらわないと始まりません。それで最初のチラシ広告は何より人目を引くことを一番に考え目立つ「暖簾〇質」を使いました。

この「暖簾〇質」の図柄は、京都の質屋組合から1986年ぐらいにもらった全質連のポスターからです。「質屋は安心です」より前?だったかも知れません。 それで新聞屋さんにチラシ印刷を頼むのに、この組合のポスターを渡して「暖簾〇質」を横に引き伸ばしてもらいました。B4用紙を縦使いにしてチラシの上半分に「暖簾〇質」を印刷し、下に「先進の橋本質店」でした。このチラシはよく目立ちました。

そのチラシの「暖簾〇質」のデザインを1995年にインターネットのホームページに使いました理由はこうです。
1994〜5年ごろ店の顧客名簿をSEに作ってもらいました。その人がこれからインターネットが凄いことになる。自分はホームページを作れるがやりませんかと言われるのでお願いしました。デザインを打ち合わせして「暖簾〇質」のチラシを元にSEが作りました。

それまで私はパソコンもインターネットもまったく知りませんでした。ただパソコンの新しい世界と「暖簾〇質」の古くてダサい世界のギャップが面白いのでないかと、そんな意識でした。後で考えますとパロディー感覚です。インターネットの世界で営業とか、ネットによる店のイメージ作りとか思想性とか、そうした意識はなかったです。そして本質的にないままです。後年に暖簾の裾が捲れている様子は、東京の広報部が昔に全質連のポスターを作るのに苦労したものと聞いたことがありますが、これは質屋の共通財産だと思っています。

ホームページを作ったSEはニフティ通信などの世界に詳しい人でした。例えば当時乗っていた車はニフティで買ったと言いました。乗用車のネット取引など私には想像もつかない世界のことでした。私はいまだにパソコンは得意でありません。相変わらずドキッとすることがあります。長く文章を書いてきたのに一瞬に消える、アッー!ヒヤッとする感じが今でもあります。

ホームページを 作った当時このSEの技術が高いのと、私が質屋について語ることがあったことで見にくる人がありました。それを後日に考えますと、ある時代にインターネットという新しく媒体が登場し、SEにIT技術あり、私に質屋について書きたいことがあり、それがこの時点で会って初めての質屋のホームページとしてスタートしたのだと思います。

また一番最初にインターネットに繋いだ日をプロバイザーのリムネットカスタマーサポート(株式会社イージェーワークス)に問い合わせますと入会日:1995年10月15日との回答メールでした。
質屋の風景の一番最初の「買い取り相場のお問合せ」が 95.10.10記 になっていますが、これは「質屋の風景」を作るときに、「買い取り価格一覧」から七番街(NanaBanGai)に発展しましたが、前からそこに書いていた文章を質屋の風景の一番最初に持ってきて、10月10日が父親の命日ですからこの日付にしたのかも知れないです。

余談ですが、10月10日は体育の日で祝日です。それは東京オリンピックの開会式の日からきていますが、私の家ではもっと前に亡くなった父親の命日ですので、この日に質流れの古着を古物市場で売っていました。京都五条室町の交友会市場は毎月、5日、10日、15日、20日、25日と競市が立ちました。市日には2階の窓から五条通りに旗が出ました。その後に道具類の18日ができて競りに広い会場がいるので植物園の近くのお寺でやっていました。その京都の質屋の流れ品が集まる交友会市場もなくなりました。

これも余談のようなことですが、私が質屋の目利きを説明するのに、「買い取り相場のお問合せ」のように医者を例に出す文章を書いたことは古いです。1973〜75年ぐらいの京都質屋業報誌に「プロフェショナル」?として私の書いた文章が載っているはずです。
「宝石の質預かりは先ずルーペの使用を心掛けたい。ルーペの使用は宝石の品質を見極めると同時にお客様に質屋の鑑定眼を印象付ける効用がある。・・医者に誤診があり質屋にくさみがある。真実には分かりきらないことがある。しかし聴診器でわずかの病変を掴もうとする医者に患者がこの医者に命を託そうと思うように、金繰りに窮するお客様がこの質屋に・・」。・・正確には思い出せませんがこんな調子の文章を書いていました。質屋の風景の一番最初の1995.10.10記の文章は、私の若い時の考えから引いています。

 

 

 

2020.05.18   続、しのぶ考

(文章を書いていますと自然と最後まで読んでほしい気がおこり、ついサービス精神が出てエンターテイメント調にして終わってしまいます。
前の文章の「しのぶ考」では、後半にしのぶの歳が35〜40色白美形と書いたあたりから落語の「野ざらし」の運びになり、組合長と役員さんがしのぶの質屋に入り浸る話にしてしまいました。しかし本来書きたいことは真面目なことですので気になっていました。大変遅くなりましたが戻って続けます。)

現在は見たところ何でもない普通の住宅が昔は質屋であったとか、今は建て替わって別の建物になっているが昔はあそこに質屋があったとか、あの路地を入った先に戦前は看板は上がってないが質屋をやってる家があると子供の時に親から聞いたとか、狭い範囲の土地に限っても昔に質屋があったという話はよく聞きます。

これまで人はいろいろな時代にいろいろな所で質屋をやってきたのではないでしょうか。品物を質に取って金を貸すという人の行為は人類史的には普通に自然なことで、日本でも戦前に地方では民家の部屋に棚をかき品物を預かる質屋がありました。その時代に地方ではその質屋のことを棚屋とも言いました。

人の一生には、あるいは人の家の事情にはいろいろな時代や出来事があり、例えば戦時中に主人が出征して、暫くして戦死の公報がきた。小さな子供を抱えて気丈夫な婦人が質屋を始めました。もともと頭が良くて女学校を出ていて書き物やそろばんができました。それに昔の婦人は和裁をしましたから古着の目利きができました。

小林旭の「昔の名前で出ています」の女性は京都では忍ぶと呼ばれです。神戸では渚と名乗りです。横浜ではひろみの命と書きです。しかしそれは捜してくれるのを待つ弱い流れ女の生き方で、それと違いいつの時代にも地に足を着けた強い女性の生き方がありました。自分の家に棚をかいて質屋を始める。自立した立派な生き方でした。

それで昔に志のぶが生活のために質屋を始めたその貧しさのことですが、ここで言う貧しさは絶対的な貧しさではありません。例えばその時代に質屋を始めた人と、質屋のお客さんになった人の違いはなんだったでしょうか。これは質屋をした者には分かることですが、質屋を利用するお客さんは必ずしも質屋より貧しい人とは限りません。
しいて言えば一番の違いは性格からくる生活態度の違いです。金が入った時にパッと使う性格の者と、対して計画的な性格の者とです。その少しの性格の違いが質屋をする者と質屋のお客さんになる者とを分けました。人類史的にはこの性格の違い‐‐例えば美味いものを先に食べるか後に残すかのような‐‐そうしたわずかな違いです。志のぶの貧しさとはその時代の中での一般的な概念です。

私は前の文章で「質屋業界挙げて質屋を昔から豊かな財産家であるような方向に演出してきました。また世間やマスコミもその方向に好意的でした。」と書きました。ではどうして世間やマスコミは演出に好意的だったのか。それは昔は実際に町に質屋の志のぶがいたからです。町の人はもう片方の目で地道に生きる志のぶの一家を見て知っていました。ですから好意的だったのです。

そして私は昔と同じく寡婦やシングルマザーが商店街の外れに「質」の看板を上げてつましく生計を立てる職業スタイルがこの社会にあっていいと考えます。例えば人口5万人に1店、2万所帯に1店ほど。「この町には質屋がある」。それは強くて上等な社会だと考えます。

先月11日の毎日新聞に白井聡が書評を書いていました。その冒頭で、新型コロナウイルスに自らも感染し療養中のボリス・ジョンソン英首相が危機と闘う医療関係者に深い感謝を述べつつ、「社会というものは確かに存在する」、と語ったという。この「社会は存在する」という言明は、1980年代から進行してきた新自由主義の象徴であるマーガレット・サッチャーの言葉、「社会なるものは存在しない」を意識したものであり、その真っ向からの否定である、と書いています。

書評した本は「水道、再び公営化!」(欧州・水の闘いから日本が学ぶこと)岸本聡子著。ヨーロッパで水道は社会的共有物であるという考えが廃れ、市場経済の考え方に則って水道の民営化が進められてきた。しかし相次ぐ値上げ、過小な設備投資等の問題が噴出し、ここへきて欧州の水道の再公営化が起こる。これは「社会」の復権の端緒である、と。

ボリス・ジョンソンが言うように、社会というものは確かに存在します。競争原理の市場経済だけでは社会はうまく行きません。これはもう共通認識です。水道という人間社会にとって最重要のインフラは営利企業の利益追求に任せるべきでありません。それについて経済学者の宇沢弘文が昔に社会的共通資本を提唱しています。

この社会的共通資本の考えは、自然環境(大気、水、森林、河川など)、社会的インフラストラクチャー(道路、交通機関、上下水道など)、制度資本(教育、医療、金融など)という3つの範疇にわけて考えます。具体的に何を含むかは、それぞれの地域や国の自然的、歴史的な要因などによって異なります。

国や時代により農業や漁業や林業など市場の競争原理だけに委ねるべきでない産業があります。また同じように競争の市場経済に乗せない方がいい仕事があります。
これまで質屋はいつの時代もお客さんと対面して取引をしてきました。店頭で本人確認をし質札と現金を渡してきました。その仕組みは長い歴史が作ってきた社会の知恵です。

非対面による質取引の考えは、お客さんが品物を質屋に送りお金を銀行振込で受け取る方式です。その質取引の形は質屋業界に市場経済の競争原理を持ち込みます。そのことはもともと大きくない質屋の市場を淘汰し地方の質屋を壊滅させます。社会にとって仕事の多様性がなくなることはその町の劣化です。町から質屋の文化が無くなることは社会の損失です。それで非対面質取引の考えに反対です。

質屋のしのぶは賢くて強い健気な女性です。今はコロナで大変な時ですが、コロナ後の世界は市場経済の競争より近くの人と人との助け合いが一層重要になる社会です。ネットによる非接触でコロナウイルス感染を防ぐ考えは、一時の非常時のことで町の者が助け合う文化は一度失うと取り戻せません。この町には質屋が不可欠です。質屋のしのぶが生活する町は良い町だと思います。

 

 

 

2019.07.06    質屋の志のぶの、しのぶ考

以前から質屋の日のポスターや質屋業報の記事を見る度に、質屋と「志のぶ」の名前について考えます。それで一度「しのぶ考」を書きたいと思っていました。

小林旭の「昔の名前で出ています」は”京都にいるときは忍ぶと呼ばれ・・”です。これは忍ぶです。人の名前ですから「忍ぶ」に特に意味はないといえばないですが、歌に唄われる、物語りに使われると、そこに自然と意味が込められているようになります。では自分なら質屋を舞台にした物語りに登場さす「しのぶ」に、どのような意味を持たせるか、またどのような質屋の未来を込めるのか一度考えてみます。

しのぶをパソコンで変換すると、忍ぶ、偲ぶが出ます。
@ 忍ぶには人目につかないようにするの意味があります。これを質屋について言いますと、お客様が人目を忍んで質屋を利用する意にあたるでしょうか。
A 偲ぶは昔のことを思うとか、亡き人を想うの意味があります。これを質屋について言いますと、戦後の質屋はこうだったと昔の質屋のことを思い出すことに関係するでしょうか。
B 他に、百人一首の”しのぶれど色に出にけりわが恋は・・”この「しのぶれど」の意は秘める、こらえるの意味です。堪え忍ぶの意味もあります。その堪え忍ぶの意を恋から離して生活につなげて質屋に関係した語に使うと、お客様が生活苦に堪え忍ぶのに質屋を利用するの意と、もう一つは生活を堪え忍ぶために質屋の商売をするの意とに取れます。

それでこの生活に堪え忍ぶために、食べるために、ある時代に質業を始めた質屋の歴史を、今の時代にもう一度振り返って検証することは重要なことだと考えます。ある時代に質屋を始めた人の動機は、きっとこれから未来へ向けて「質屋」を考える重要な参考になるはずです。

以前、後の時代に大阪の質屋組合の理事長をした人がまだ常務理事だった時代に、広報部の若い人にどうして質屋を始められましたかと問われて、「食わんがためや」と答えておられた業報の記事を読んだ憶えがあります。戦後まなしの時代のことを私は知りませんが、きっとこの人のように多くの質屋は食べるために質屋を始めたんです。
(もちろん江戸時代から続いた老舗で地元の名士で資産家である質屋が、昔は例外的にありました。しかしそのような質屋は昔〈私の知っている昭和45年ごろ〉でも例外でした。)

これまで質屋組合は昔の貧しい質屋の歴史を取り上げてきませんでした。そうした事実は質屋を昔の暗いイメージにする方向になるから嫌ったんです。それで質屋業界挙げて質屋を昔から豊かな財産家であるような方向に演出してきました。また世間やマスコミもその方向に好意的でした。そうして日本の高度成長期の豊かな時代に、質屋は高価の品物を質に取り質屋業界は繁盛し高額の商いをしました。

その意味で質屋業界としてその方向に行ったことは正解だったのですが、質屋自身が貧しく苦しかった時代の歴史を次の世代に伝えなかったことで、意図的にその時代の事実を消したのではないですが結果なかったことと同じになり、次の世代は知らないままできました。しかし質屋が貧しかった時代の歴史を書き残すことは決して自虐的なことでなく、これからの質屋を考える上で重要なことだと考えます。

昭和45年ごろ
私が初めて京都の古物市場へ行くと質流品の荷でいっぱいでした。競るのに次はどこの質屋の荷であるかを市場の人が帳場に「冠替わりー、どこどこの〇〇さん」と告げます。しかし売り主の質屋が市場に来てないことがよくありました。後で知ったことですが、こうした中に未亡人がしている質屋の荷があったようです。それを後家質と言いました。

また京都の広報部で編集をやっていた時代に、広報部員から当店に原稿がFAXで入ってきて字数をよんでページの割り振りをして組合本部へ送って業報にしていましたが、お店紹介の特集で部員があるお店を訪問して書いた記事をそのまま送ったら、紹介記事の中の「奥さん」と書いてあることについて、あの人は奥さんでないと意見がきました。・・詳しいことはなにも知りませんが、確かに業報でお店紹介する場合の奥さんは、商店街でちょっとそこの奥さんと言う奥さんと違います。それで女性経営者になりました。

こうしたことは統計として集められることはなく実態として把握されることもなかったでしょう。質屋は家にいながら未亡人や、ある意味弱い立場の女性にもできた仕事でした。食べていくために、生活していくために質屋を始め商売していた人達はいたと思います。

もちろん何の仕事でも食べるために、生活するためにその商売を始めます。魚屋もそうでしょうし八百屋もそうでしょう。そうなんですが
業界上げて質屋を豊かな方向に演出してそれで成功したものですから、次の時代になるとそこには演出があったことを忘れてしまい「老舗の質屋からの歴史」しか知識がありません。そして事実今は、質屋自身が自分の周りを見回しても昔のそんな貧しさはありません。

当然こうした昔のことの中には、今の時代からすると都合の悪いことやまた伏せておきたいことがあります。だからそれをわざわざ今に掘り起こすことは愚かなことだとする考えは正論です。しかし私が20才の時に見た質屋の風景はもう50年前の風景です。半分は歴史に入っています。そしてその昔の事実の中には質屋の未来を設計するのに必要な資料が埋もれている可能性があります。

現在、どんどん質屋の軒数が減っています。これは昔に書いたことがありますが、平成の初めころに大阪質屋組合の総代会に行くと5階会議室が組合員でいっぱいでした。それでも演壇で副理事長さんが言うのに、組合員数がここまで減ってきているのに年間の減少数がまだ止まらない。昔の1500軒あった時代に年間50軒減るのと、ここまで減ってきてまだ年間50軒減るのとでは組合本体のダメージが違う(数字はうろ覚えです)。松沢さんという年配の人でした。

この半世紀ほど質屋業界は子供が継ぐ店は残り、継がない店は無くなってきました。新規参入は(最近のことは知らないですが)多くはなかったと思います。これまで質屋の組合は、あるいは質屋業界は、後継者のことに関心を集中してきました。それは組合員である質屋の子供が継ぐか継がないかは将来のことでなく今の組合構成員のことですから最重要課題です。しかしそうして業界は衰退してきました。

しかしもう質屋の子供が店を継ぐことを考える話しは横において、別に、今の時代にどのような人がどのような考えで新たに質屋を開業する可能性があるのか。また質屋の将来にとってどのような人が質屋を開業するのが良いと考えるのか。そうしたことを考える方が建設的だと思いますので、その点を書いてみたいと思います。

14〜15 世紀ヨーロッパでルネッサンスが興りました。それは中世キリスト教社会の暗い時代から昔のギリシャ、ローマ時代へもどろうとする回帰現象でした。ですが実際に戻る昔のギリシャ、ローマの社会はもうないわけで、新しい時代のヨーロッパ文化を作った、そう高校の世界史で習いました。今、質屋のルネッサンスを考えても昔の質屋が繁盛した戦後の日本社会には戻れません。昔は良かったと言ってももうそんな社会はどこにもありません。ではこの時代に昔に質屋を始めたような人がいるとしたら、今は社会のどこにいるのか?。私は自分の希望を入れてですが、寡婦やシングルマザーの中にその可能性を見ます。

(これを書くことは誤解を生むといけないので注意が要りますが、
例えばパチンコ業が法律で特別許可されている理由の一つに、寡婦に景品交換所で働く仕事を作るためというのがあるらしいです。これが法律に書いてあるのか、立法主旨に書いてあるのか知りませんが聞いたことがあります。つまりパチンコは社会的弱者に働く仕事を作る政策の一面があると言います。)

今の時代は、未亡人やシングルマザーが境遇としては弱者であっても、上記の景品交換所の話しのように必ずしも貧しいわけではありません。中には高学歴で知的であり教養があり財産があり豊かな人もいます。そうした中には女性の地位向上を目指して社会運動をする人もいれば、福祉事業や介護支援に貢献する人もいます。またIT事業を立ち上げて時代を切り開く人もいます。

同じようにそうした女性の中に商売を通じて社会に関わりたいと思う人もいるはずです。その女性の中に、たまたまネットで質屋の文章を読んで質業が持つ条理に刮目し自分は質屋業に参画しょうと考える人がいるとします。それが私の考える「しのぶ」です。その女性が自宅の前に「ピアノ教えます」「英語教えます」と同じように「質」の看板を出して質屋を始めます。そして「この町には質屋がある」になります。

それでこの「しのぶ」ですが、歳の頃なら35〜40、色白美形。大学で英米文学を修め会社に入るも同年代の同僚男性は頼りなくて関心が持てず、つい仕事のできる上司に好意を抱く。しかし上司には妻子があり家庭を壊してはいけないので身を引いて会社を辞め実家に戻って子育てをする。傍ら家でピアノを教え英語を教えるも、他に社会との係わりを探して上記のごとく「質屋」に行きあたる。

それで調べると質屋組合というのがあるので訪ね、質屋を始めたいのですが開業の仕方を教えて下さいと頼むと、質屋組合の事務長が1名でも組合員が増えるのが嬉しいものだから、もう懇切丁寧に許可の取り方などを教えた。そして一軒の質屋ができて組合員が一名増えた。そうするともう組合挙げて応援をしょうとなって組合長も役員も、自分の仕事をほったらかして「しのぶ」の質屋に入り浸り、目利きの仕方、台帳の書き方、流し方、古物市場の売り方などを教えた。
「しのぶ」のためなら一肌も二肌も脱ごうという組合員が何名もいて応援するものだから店は大いに繁盛した。・・これが私の考える「質屋のしのぶの物語り」です。どうですか、質屋の未来に夢と希望が起こりませんか。

 

 

 

2019.06.23   橋本質店とコンパック

このページに1年も書いていませんでした。この間、前の文章 2018.05.27 の下段 に、当初求めていた記事は国立国会図書館東京本館に行かないと難しいようです書きましたが、これは私の思い違いで、探していた記事は関西館で最初に当たっていたのでした。それを正す意味でここに新たに記事を載せるかどうか考えていて1年が経ちました。

1995.10.ホームページを立ち上げてインターネット初の質屋として新聞や雑誌に取り上げられ、その中にコンパックと並んで載った紙面の記憶がありました。その新聞記事を探しに行ったのですが、記憶が長い間にコンパックと並んだ橋本質店の方は、質のトップページだと思い込んでいました。それで当日当たった記事以外にある筈だと思ったのです。

それで再度、国立国会図書館関西館へ行き別のキーワードで調べました。前回と同じく2件当たり、日経流通新聞の方「新聞2」を見ると、横にコンパックが並んでいるんです。これだったんです。前回は当たったと思った瞬間に、掲載日が思うより早過ぎますし、トップページでないし初めて見る当店の別の新聞記事だと思いました。それで職員の人にそこだけを切ってもらいコピーしました。しかし今回見ると横にコンパックが並んでいました。コンパックと並んで載ったのはトップページでなく買い取り価格一覧のこのページだったのです。「新聞2」の What's  New の右に同じようにコンパックが載っていました。

この新聞記事が載った当時、SE の人がコンパックの横というのが良いですねと言いました。それでコンパックは大きいのですかと聞くと、世界一だと答えたのを憶えています。今も調べると確かに2001年にデルに抜かれるまで世界一です。(そのあとHPに変わってしまいました)そして長い間、私は橋本質店のトップページ(質の暖簾)とコンパックが並ぶ紙面を勝手に思い描いていたのでした。橋本質店と世界一のパソコンメーカーが並んだ歴史的紙面として。

この勘違いに気が付いたのは最初に
国立国会図書館関西館へ行った翌る月の6月9日です。それでコンパックと並んだ記事をプリントアウトしてきて、このページに載せるかどうか考えましたがくどくなるので止めました。しかし思い違いに気が付いているのにそのままなのもいけませんので長く気になっていました。それで一年も遅くなりましたがここに書きました。

 

 

2018.05.27    橋本質店のアーカイブを探して

毎夜3時半頃に新聞配達のバイクの音が聞こえます。当店はもう何十年も2紙を取っていて、新聞屋さんにはいい購読者だと思います。
先日、新聞屋さんに過去の紙面のコピーが欲しくて電話をしました。日経産業か日経流通新聞に199613月に当店のホームページを紹介する記事が載ったので、その写しが欲しいと頼みました。

それでは本社に聞いてみますとのことで、しばらくして返事がありました。日経本社は「そんな昔のものはない」と言いますとのことでした。重ねてどこかのアーカイブに残していませんかと問うと、地方の自治体が地方記事を独自に残しているかも知れないが、それは本社では分からないと言っていますとの答えでした。

そうかなーと思うので、ネットで調べて国立国会図書館関西館に電話で問いました。そうしますとこの場合は東京本館ならこう、関西館ならそれがこうでと教えてくれました。それで昨日、国立国会図書館関西館に行ってきました。職員が丁寧に調べ方を教えてくれました。

当初求めていた記事@は東京本館に行かないと難しいようですが、別の橋本質店のホームページの記事2件が日経テレコンのデーターベースに引っかかりました。SE が当店のホームページを yo.rim.or.jp  にUPしたのが 199510月です。見つけた内の1件の記事は1107日の日経流通新聞に解説と写真が掲載されていました。
@ 2019.06.23 に記述があります。「橋本質店とコンパックをご覧ください。

 

 

 

2018.05.19    質屋の野立看板

このページには1年も書いていませんでした。
毎日「この町の風景」の方のネタに追われていまいました。この文章も当初「この町の風景」に書いていましたが、質屋の風景の方が合うのでこちらに載せ替えました。
橋本質店の軒下の掲示板に、自治会からでない、それ以外のポスターを貼る基準について考えたときに、昔にあったこんなことを思い出しました。

もう40年ほど昔の八幡市橋本の店での話しです。「橋本質店」を広告するのに京都府は大阪府と違い電柱広告ができません。それで野立看板の広告の需要があり取り扱う業者がいました。プラスチックの板40×50cmほどに、上の三分の二に交通安全の標語(例えば横断歩道を渡りましょう)を書いて下の三分の一に「橋本質店・電話番号」を書いて、そうした板20枚を制作して、貼ってきて幾らでやりますという仕事です。

当店も注文をして、見本を見て、全て貼ってきたので請求の金額を払いました。10日ほどしてある小学校の校長先生から店に電話が掛かってきました。小学校のフェンスにくくってあるおたくの広告板を外してというものでした。校長先生が言われるのには、標語の横断歩道を渡りましょうなど、交通安全の主旨は誠に結構だが同ような物を貼られたら困るからとのことでした。それで外しに行きました。

また他所からも外しなさいという電話が掛かってきました。しかしその壁には以前から○○医院さんの同じような広告が貼ってありますと答えると、病院は人の命にかかわるから別や!と怒られました。これも外しに行きました。業者からは貼る前に一応、声を掛けておくと聞きましたが信じるには無理があります。一般に質屋の広告看板は塀や壁に貼らしてもらうのにお金を出してもむつかしいことが多かったです。
こうした経験をしてきた者にとって、逆にポスターを貼らしてくださいと人が頼みに入って来るのはとても気分のいいものです。昔の労働者が、今は資本家になったみたいで。

 

 

 

H29.05.23 記     「この町の風景」をはじめて

この町の風景に載せる店や人の写真を撮らせてもらう前に、いつも「お知らせ」の用紙をお渡しています。
用紙の内容は、私どものホームページに地元のお店を紹介したり、町内や周辺の様子を取り上げて少しコメントを入れて更新しています。ご迷惑を掛けないように注意しますので、撮影や取材に協力いただけましたら有りがたいです。コメントの訂正や加筆はいつでもしますのでお知らせください。橋本質店 橋本。このような文面です。

ただこれは始める前からあることですが、これをする意義と言いますか、これをする理由がこの用紙には書けていません。つまりこれをすればこのようにして町のためになると思うとか、あるいは紹介するお店にとってプラスになると考えるとか、そうした肝心のことが書けていないのです。

それでよくよく考えると確かなことは、今のところ自分がしたいからしているのです。したいからするのですから、写真を撮らせてもらうのに、お店のレジの女の子にも頭を低くして頼んでいますし、質屋の私が今まで自分の店でお客さんに見せたことがないような低姿勢で了解をいただいています。そして最低限、人に迷惑を掛けないように注意しています。

それと「この町の風景」は当店の商売とは関係ないことですが、とは言っても、載せるのが今のところ当店のホームページの暖簾に○質の看板の下ですから、それで通るかということがあります。ただその点については私もいつまでも質屋のページにしておくわけにもいきませんので、ページをリニューアルする予定です。

毎日、「この町の風景」を更新していて、これに何か意義があるように思っているのですが、それがまだ明確には見えていないのが実情です。
何かお気付きのこと、あるいはご意見、ご要望などございましたらお願いします。

 


 

H29.01.18 記     質屋勝手な対応

先日ある歌会で年配のご婦人が詠われた歌に、スーパーで支払いをするのに財布を捜す間だ、レジの人がイライラを面に表さずに笑顔で待ってくれていた、一首がありました。
当店でもカウンターの前でお婆さんが質札を捜されることがありますが、私はレジの人のように笑顔で待っていたりしません。イライラを表に現すことがよくあります。

質屋としては質札がないと品物をお返しできませんので、じっと待っているのですが、それが長いのです。バッグの中を何度も探して、小袋の中も探して、財布も探して、それでも出てきません。質札は普段から人目につくと格好が悪いと思っているから奥へ入れ込んでいて、それでよけいに出てこないのです。

あまりに長いのでイライラして、もぉー、家を出る前に質札を捜しといでえなぁーとか、私も他にする仕事があるねんや、と言ったりすることがあります。べつに次のお客様が後ろに並んで待っているわけでもないのに。ひどいはなしですけど。すいません。
こんな自分勝手な対応をしてきたのに、それでも先日は、質をやめるから今年はもう預かれへんと言ったら、やめんといてと頼まれて、しかもやめたらボケますよと、こちらのことを心配までしてもらって、有り難いことです。

 


H29.01.12 記     質屋の風景から町の風景へ

これまでこのページに質屋のことを書いてきましたが、当店の質営業もすでに終了モードに入っていますので、これからは質屋だけでなく、これまでお世話になったこの町の風景も載せていこうと思っています。
町の写真にかんたんなコメントを添えたものを更新していくつもりです。ただ、今のページでは文字の回り込みができませんので、新しいページの元(種)を昨年からSEの人に頼んでいます。もう少ししたらできる予定です。
それで始めるについて、写真に人の顔が写る場合はどうするか。また風景に人が写っているような場合は問題ないのではないか。いやそれより先に、取材する自分の顔を載せる必要があるのではないか、・・等々。始める前にいろいろと悩んでいます。

 


 

H29.01.11 記     質屋と社会をつなぐ

もう15年ほど前になりますが、地元の町内会報の立ち上げに係わったことがあります。近所の自治会の役員さんから、町内会も広報が必要だから会報のようなものを作りたいと相談を受けて、「岡東自治町内会だより」を作るのを手伝いました。内容は、
1ページは町内会会長の挨拶と自治会の役員名、各班の幹事名、
2ページは盆踊り大会への賛助金のお礼、
3ページは秋祭り、区民体育際などの行事予定の案内、
4ページは老人会、婦人会、青年会、子供会、の各協力の要請文、
でした。
私のパソコンで4ページ分の内容を作りB5の大きさでプリントアウトして、無料でコピーできる市のサービス(町内のお知らせや子供会などの文書に限る)にB4の用紙を持ち込んで、1と4ページ、裏面に2と3ページを印刷して、半分に折ってB5版の4ページの会報を先の役員さんと作りました。
市のコピー機は輪転機のような機械で、200部ぐらいすぐに刷れます。私は立ち上げから数号かかわって、その後は次の自治会の役員さんがされています。年に3〜4回の発行で今は、「岡東自治町内会だより」は54号まできています。



前に読んだ内田樹の本に、アメリカの新聞社が地域のミニコミ紙から発展した経緯を、西部開拓の歴史に絡めて書いてあったことを思い出します。数字や文言の記憶は確かでありませんが、およそこんな内容でした。
アメリカの西部開拓の時代に、広大な西部の原野に開拓者が入り5人ほど集まったところで教会ができ、それが10人ほどになったところで学校ができ、100人ほどになったところで村を守るために金を出しあって保安官を雇い、200人ほど(数字はデタラメです)になったところで町の広報紙(ミニコミ紙)を発行する人があり、それをもっと広い範囲で大量に発行すればビジネスとして利益が出るから、次には経営の得意な者が地域の広報紙を順次買収統合して発行部数の多い新聞社を作っていった。
始まりの、人口が200人の時点で広報紙を出した人は、書くことや広報することが好きな人で、しかしそれは特別な才能でもなんでもなくて、200人の中には教えることが好きな人、人を動かすことが好きな人、大工仕事が好きな人、絵を描くのが好きな人、歌を歌うのが好きな人、などがふつうにばらけていて、その程度の能力で十分に出来ることをそれぞれの人がして、そして西部の町が発展していった、と。

それで次に質屋組合の発行する「質屋業報誌」を考えますと、戦後暫くして組合員数が多くなり広報の必要性が出てきて、当時の組合長が編集が出来そうな質屋の組合員に「組合だより」のようなものを作るよう要請したのが始まりではないでしょうか。今も組合の決算報告、役員の紹介、組合からのお知らせ、などが載っています。これは当然に質屋世界の内部のものです。
一方、外へ向かっての広報としては、各質店のホームページのブログが大きな役割を担っています。その立つ位置は個人の店ですから自己責任で自由です。そして今の時代、各店のブログが質屋の内と外とを、質屋世界と社会とを繋げています。

 

 
H29.01.01 記     お知らせと感謝

橋本質店枚方駅前店は、
28年末をもちまして質預かりの業務を終えました。
29年1月よりは原則として新しい質預かりはいたしません。
長らく当店をご贔屓いただきまして誠にありがとうございました。
なお質預かり品の受け出しと当分の間の利上げ業務は引き続きいたします。
また買い取り業務は今までどおり行います。新年は5日(木)から初めます。
これまで当質店をご利用くださいましたお客様に感謝申し上げます。
 

 
H28.12.23 記     質屋の親子の幸せ物語り

これは30年ほど前に聞いた話しの内容を思い出して書いたものです。ある地方の質屋の主人が、都内の大きな質屋を訪ねて息子を修行させてほしいと頼むところから、この話しははじまります。

「息子はいま浪人して家で大学受験の勉強をしています。しかしとても志望大学に受かるあてがなく、あせって勉強が手につかずノイローゼ状態です。もうご飯も食べず、だんだん痩せてきて、毎日息子を見ていると、今日に首を吊るか、明日に電車に飛びこむかという状況です。
ちょうど店の横がJRの線路で、昼間に商売をしていて窓の外を見ると、そこに特急電車が止まっていることがあり、一瞬、ドキッとします。それでバーッと階段を2階へかけ上がって息子の部屋を開けて見ると息子がいてホットするのですが、なんと言ってもドキッとして階段をかけ上がるものですから、もう心臓がパクパクします。
こんなことが度々あると(駅に近いから信号待ちで時々電車が止まる)、本当に息子が飛びこみよる前に、私の命の方が尽きます。だから息子を助けるのでなく、どうか私の命を助けると思って、こちらの質店で息子を勉強させてもらえないでしょうか。息子も質屋の修行をして進路が決まったら、大学受験のプレッシャーから解放されて立ち直ると思うのです。」

この話しから30年ほどして、数年前の東京業報の地方の質店紹介のコーナーに、その息子さんが登場していた。
お父さんの後を継いで現在50才。その地方の質屋組合の今は立派な役員さんである。
東京の広報部の、どうして質屋を継がれましたかの問いに、「親父が病気しよって」と答えている。
そうかなぁー? お父さんが病気したのはもっと後の話しではなかったやろか。私は確か30年ほど前にお父さんからは、息子は受験勉強でどうのこうのと聞いたような記憶があるけど。

いやしかし、考えてみると先のお父さんの話も出来すぎていると言えば言える。上記のようにお父さんの話しを文章に起こすと・・店の横がJRの線路で・・窓の外に特急電車が止まっていて・・ドキッとして・・階段を2階へ駆け上がって・・心臓がパクパクして・・息子より先に自分の命の方が尽きる、・・このままネタに使えるほど上手い。息子が死ぬか親が死ぬかというほど切羽つまった話しにしては今思い出しても面白い。
本当はこのお父さんの方が作り話で、質屋を継いだ息子さんは勉強が出来たのかもしれない。だから30年前のお父さんの話は、子供が店を継ぐのに自分が活躍する筋の、息子を受験地獄から救う「親の愛の物語」のシナリオであったのかもしれない。

この話しは親の方が嘘か、子の方が嘘か、または両方とも嘘なのか、真実のことは別にして、ともかく30年前の親の話も、30年後の子の「親父が病気しよって」の話しも、どちらもこの30年間は良であり是でありました。子を思う親の愛、親を慕う子の愛。それを行政もマスコミも、社会は支持してきました。またこの「質屋の父と子の愛の物語り」は、同時に「質屋の親子の幸せ物語り」でもありました。それはそれで結構なことなのですが、ただこの構文で行ける世界には限界があります。そして今、質屋は新しい物語りの登場を待っています。
 

 
H28.12.11 記     質屋の若ぼん

質屋についての文章を書くのに、私が経験した1970年から2000年の間の京都の質屋世界を参考にして考えることがよくあります。しかし思い出す過去は、今のここから思い出す過去であって、必ずしも昔のその通りではないと思います。しかしそれはそれでいいと思うのです。読む人もまた、今にそれを読んで考えるのですから。

前の文章でも書きましたように、京都の質屋が減っていく一方の中で、残っている質屋の関心ごとは子供が店を継ぐかどうかでした。その組合員である親の意に添うことは、国民の民意を汲んで政治に生かすのが政治家の仕事であるように組合にとって自然なことです。
しかしよく政治家と政治屋の違いについてこう言われます。次の選挙のことを考えて活動するのが政治屋で、20年後のこの社会について考えるのが政治家だと。そうすると、京都の質屋世界はあれでよかったんだろうかと考えることがあります。

質屋の若ボン(わかぼんと読みます。バカボンではありません。赤塚不二夫の)が出てくると、古物屋さんはナデナデします。その店の質流れ品を扱うのですから。もう好き好きです。
また行政にしても、坊ちゃんというのは扱いやすいので可愛い可愛いします。戦後に這い上がってきたような創業者の質屋はどんならんのがいたかも知りませんが、後継ぎの坊ちゃんはまじめで正義漢が強いから、悪いことをする心配がいりません。もう可愛ゆぃーんです。
また組合の顧問弁護士さんも勉強会で質屋の若ぼんに説教したりしません。例えばこんなふうには、・・
「私は大学の法学部を出て難関の司法試験に受かって弁護士をしているが、質屋の後継者の君たちはどうなんだ! それでどこかの会社へ勤めるか、派遣にでも行って、どれだけの給料がもらえるんだ。それなのに朝は通勤電車で押されることもなく、昼はおいしいご飯を食べて、良い車に乗って、君たちはどれだけ恵まれているのか。その有り難さをよくよく考えて、もっと商売に励んだらどうなんだ!」・・なんてことは言われないのです。べつにそれが弁護士さんのお仕事ではないのですから。

(余談ですけど、案外これを顧問弁護士さんのお仕事にしてもらったらどうでしょうかね。年に3回ほど後継者の若者を組合に集めて叱っていただくというのは。説教特約付きのプレミアム顧問弁護士契約を結んで。そうすると、質屋のおっさんが説教しても、後継者の若者にしたら「お前らが、なんじゃ!」となるでしょうが、弁護士さんに説教してもらうと重みが違いますから。)

それでともかく、当時に25才の質屋の若ぼんが、古物屋さんにナデナデされ、行政に可愛い可愛いされ、誰からも叱られることなく、それから25年ほどきて、今50才前後だと仮にして、その時にこの業界が衰退に向かうのは自然なわけです。ではどうしたらいいのか。・・この先は考えが続かなくなりました。では、またいい考えが浮かびましたら続きを。
 

 
H28.11.30 記     きみ、質屋やってみない!

毎月、枚方市役所の「広報ひらかた」が郵便受けに入ります。裏表紙の一番下、人の動き10月分に、「10月末現在」(住民基本台帳による)、転入895人、転出858人、出生253人、死亡273人の数字があり、人口:405.263人「前月より17人増」。このように枚方市の人口と所帯数の動きが載っています。

この市役所の広報誌を見て質屋の軒数の推移のことを思いました。例えに私の知っている京都の質屋業界について書きますと、1970年から2000年の30年間に、枚方市の人の動きなら転入にあたる新規参入は一軒もありませんでした。
親の時代に1軒の質店が子供の代に2軒になったのは2例だけで、あとは子供の一人が後を継ぐか、子供が継がない店は親が歳をとって店がなくなっていくかでした。その間に新規参入の店はありませんでした。
枚方市の人口の動きに例えますと、出生はわずか2例で転出と死亡ばかりで転入はなかったことになります。ですから年代が進むにしたがって質屋の軒数は減っていきました。
この間だ、残った質店は辞めていった質店のお客さんを受けるかたちで、つまり残留利益を得て、全般に微減の状態で商売をしていきました。
この時代に、もし新規参入の質屋があれば、それでなくてもお客様が減っている現状ですから、既存の質屋は脅威に思ったでしょう。
しかし今、ここまで質のお客さんが少なくなり質店の軒数が減り、質屋の盃そのものが小さくなってくると、質屋業界に新規参入してくる事業者がもしあったら、既存の質屋はどう考えるでしょうか。今そこが一番知りたいところです。

それで質屋の場合その傾向と対策についてこんな例を思います。
過疎に悩む地方の町村役場が、都会の若者が I ターンして村に住むように役場が空き家になった古家を所有者から借り受けて、都会の若者に安い家賃で貸し出しするなどの政策をとっています。そのようして若者を村に呼び込むことで村の活性化を計ろうとしているのですね。

今、質屋業界の現状が過疎に悩む自治体と同じ状況にあるとしましたら、これから質屋組合も新規参入者を呼び込む動きに出るかもしれません。それでもしかしたらもしかして、来年の7月8日の質屋の日には、質屋の組合員がターミナルに出て、ちょっと、そこの若い子! きみ、質屋やってみない!なんて声をかけているかも?
 

 
H28.11.26 記     消される

朝食時にNHKのドラマ「べっぴんさん」が映っていて、先日、なんとなく見ているとこんな場面がありました。
注意して見ていないので詳しい筋はしりませんが、戦後の神戸でのことです。ご婦人が生活するお金に困って大事な時計を売るのですが、買い取った店のご主人がいい人で、「すぐに売らないでしばらく置いておきます」、と言うのです。
これ、今までのテレビドラマではご婦人は時計を質屋に預けて、お金を工面する場面ではないでしょうか。実際そんな大事な品物なら売らないで、また取り戻せる質屋へ預けるのが普通だと思いのです。

これは昔のドラマを作るのに、その時代には普通にあったことでも、今に質屋を出すとドラマの雰囲気に合わないから、脚本で、あるいは演出で質屋が買取店に変わったのでしょうか。
よく時代劇で質屋の看板が映りますが、歴史というほど昔でない戦後からこちらのドラマでは、質屋を使うとドラマの雰囲気が壊れるから、現実にあった質屋がなかったことにされる。このようにして現在に作られるドラマでは、質屋は過去からも消されていくのだろうかと考えました。

それとも実際には、終戦直後の闇市の時代は、食べるものが無くて売り食いの時代ですから、品物を質屋へ預けてお金を借りるより、どうせ引き出せる当てがないから品物を売却したのでしょうか。
またその時代には商売人も質で預かって利息をもらうより、買いとって売った方が回転が速くて儲かるから、質屋をする人は多くなかったのでしょうか。どうだったんでしょうね。

以前、私と同じ世代の質屋6人に、店の始まりはいつ頃やと聞くと、一人だけが100年以上続いた店で、後の人はその人達のお父さんが戦後の昭和22〜28年に始めた質店でした。前の商売は呉服屋さんであったり食べ物屋さんでした。
思っていた以上に知っている質屋の店は新しくて、多くの店は戦後の出発でした。ですからまだ闇市の時代には、世の中は売りと買いが主で、質屋に入れる、流す、ということは一般的になかったのかもしれません。どうなんでしょうね。

しかしそれにしてもです。以前なら、戦後のドラマにはあの場面で質屋が出たとおもうのです。それが出ないのは消されたのか、正されたのかは定かでないとしても、きっと以前からは変わってきているのです。今の人の、買取屋さんと質屋を見る眼が。
 

 
H28.11.13 記     顔を見ときたい

前の文章の続きです。TBS「筑紫哲也NEWS23」のディレクターからメールが来て、テレビに出るのが嬉しいものですから方々へ電話をして、しかし番組の特集が流れて失敗したことですが、メールが来たちょうどその頃、京都の質屋組合の理事長さんから電話を頂きました。前に、私が始めたインターネットのホームページを見たいと言われるので紙にプリントして送りました、その件についてでした。それで電話を頂いた時に理事長さんにも何日のNEWS23に私のホームページが紹介されますと言っていました。

ところが前述のようにエベレストで日本人の遭難事故があり、当日そのニュースで特集が流れてしまいました。翌る日に理事長さんからインターネットについて問い合わせの電話があり、その折りに昨夜は映りませんでしたねと言われるので、いや二日の予定ですから今夜はきっと映りますと答えました。
ところが二日目もエベレストの事故の続報で、最後にチラッと当店の暖簾に質のページが映った程度でした。理事長さんは夜はいつも早く床に就いておられるのですが、11時過ぎまでテレビの前で起きていてもらって、それも1日でなく連チャンでです。
理事長であった故杉本善兵衛氏は質屋組合の全国組織の副会長で、他の地方の組合長にもNEWS23に橋本質店のホームページが紹介されると連絡されていたようです。全国的に理事長の面目を潰したようなことで、何もおっしゃらないのですがまったく申し訳ない限りでした。大失敗です。

それでしばらく出会わないようにしていましたが、1年ほど過ぎたある席で、理事長さんからインターネットはその後どうですかと聞かれて、その当時SEの人が言っていたことを報告しました。
「世の中にはインターネットをしたら儲かると思っている人が多くて、SEの私にも、会社のホームページ作って欲しいという経営者からの依頼がよくあります。しかし儲かるページを作ってくれと言われると断っています。ただ会社の名刺代わりに作って欲しいと言われると引き受けています。そんな簡単に儲かるものではないし、やったけれど何だとなって、それで顧問先の会社を失うのは嫌ですから。」
そうSEが言っていますと答えました。理事長さんはよく分かられたようです。「名刺代わり」というのはいいですね。そう言われました。

私も当時、記者の取材を受けて「儲からへん」と答えているのに、雑誌に載ったときの見出しは「儲かるインターネット」でした。しかし中身の文章を読むと、「・・ネットのお客様はまだ多くなく、インターネットはまだまだこれからである」。こんな調子で嘘は書いてないのです。しかし見出しは儲かるインターネットです。マスコミは何がなんでも「インターネットは儲かる」と書きたかったのです。
当時こうした状況下で他の質屋の人達も、質屋がするインターネットは実際どうなのか、知りたがっていたと思います。ですから自分は現実にやってみてどうなのかを質屋業報に書くのなら私はいくらでも書くのですが、みようなことにどこからも書いて欲しいという依頼はありませんでした。多くの質屋が分からない状況ですから上の理事長さんのような質問になり、それで「名刺代わり」、それはいいですねと言われたのも、それが不明な点の一つの解であると思われたからではないでしょうか。

インターネットをして、雑誌に取り上げられて新聞に載ってただで広告をしてもらって、当時それだから店の業績が伸びたということはありません。また買取が増えたとか、ネットのショッピングモールでたくさん物が売れたこともありません。ただやっぱりホームページはいい広告になり店のブランドを上げたことは確かにあると思います。やってよかったんです。

それと当時、私の顔を見に来た若者が何人かいました。「ホームページを作った人はどんな人なのか一度顔を見ときたくて」と言って店に入ってきました。そうした若い人にはページを作ったSEの人が別に居るねんや、と答えていたのですが、この若者が文化系で文章が面白いと思って見に来たのなら私の顔でいいのですが、理工系で it 技術がすばらしいので見に来たのなら見るべき顔はSEの顔です。どっちだったんでしょうね。若い子ですからあまり喋らず直ぐに帰りましたから分かりませんが。
 

 
H28.10.30 記     質屋のブログ

前のH27.06.14 記 にドーナツ屋さんの店先のボード(黒板)に、商品のドーナツとも店とも何の関係のない、休日に市民マラソンを走ったことが書かれていて、こんな関係ないことを店先に書くこともアリかと思ったことを、このページに書きました。
先日は、そのドーナツ屋さんの前を通ったら、今度は、ハロウィンのグッズを買いに行ったら、他の品物を買ってしまって・・と、こんな文章が書いてありました。
また近くの美容室にも同じようなボードがあり、内容は梅田の6年4組という店に飲みに行ったら・・と、やはり美容室とは何の関係もないことが書いてありました。
またこれは別のことですが、知人にインターネットのアメーバーブログをしている人がいて、先日から見にいきますと毎日書き込みがされています。そのブログを読んでいて思うことがありましたので、その考えを整理する意味から文章に書いてみます。

このアメーバーブログをしている知人は趣味の多い人で、カメラのクラブに入り、ハーモニカのグループに入り、短歌の教室に通っています。それに関連して撮影に行ったことや、ハーモニカの演奏を福祉施設でしたことや、短歌の教室で先生から添削をうけたことなどを書いています。またその他にも孫さんのお泊まりの日のことや、お母さんを病院に見舞った時のことなどを、何枚も写真を付けて毎日載せています。写真はキレイで、短歌は上手くて、ブログのリズムは良くて、筋の通った話しぶりです。これを毎日更新するのですから大変な労力です。

それで考えるのですが、上のドーナツ屋さんや美容室が店先のボードに文章を書くのは、それによって店に親しみが出て、店の営業にプラスになると考えるからでしょう。
これに対してこのアメーバーブログをしている人の場合は、カメラやハーモニカや短歌のことを書いても、特にそれによって何か有利にはたらくことはないと思います。例えば女流歌人への道?、・・そんなことはないと思います。それでも書いているのは、カメラやハーモニカや短歌を仲間とすることが楽しいように、それをまた記事にしてブログに書くことが、同じように楽しいからでしょう。単純にそういうことだと私は思います。

それでです、では私がこのページに文章を書いている動機は何なのかを自問自答してみました。以前は確かに書いて載せると、検索で「橋本質店」が当たって、商売に有利に働くと考えていた時期がありました。しかし最近はあまり店の商売にプラスかどうかは考えないで書いています。
では書く動機は何かと考えますと、それは一つには書くことが性に合っているのでしょうね。上のアメーバーブログをしている人と同じように、書くことや、表現することが好きだからでしょうね。ただ私の場合は、他の人と違うのは、(これが二つ目の理由です)特に質屋に関係したことを、それも店の商売にプラスになるかどうかに関係なく書きたいと思っているからです。その理由を以下に書きます。

私がインターネットを始めたのは非常に早くて、当時は、雑誌や新聞に「インターネット初の質屋が開店」と紹介されました。自分のホームページのなかで「質屋とは?」と初めてインターネットで質屋の業務の内容を説明しました。それが一部のメディアの関心をひき雑誌や新聞に掲載され業界内で「橋本質店」が知られるようになりました。それからずっと質屋に関係することを書いています。1995年からですからもう20年余になります。「質屋の風景」の1冊〜5冊を書くのに、これまで相当の時間を使ってきました。

私が1995年にインターネットを始めた経緯は、店の顧客名簿のソフトを作ってもらったSEの人から、これからインターネットが凄いことになる。自分はホームページを作る技能があるのでしてみないかと誘いをうけました。それで面白そうなので乗りました。私はパソコンはしないのですが、文章は少し書けました。それでSEの人のセンスが良く能力が高いこともあって、当時としては結構いいホームページが出来たと思います。

それでプロバイダーと契約してUPしたら、しばらくして取材の電話が複数掛かってきました。それに答えていると、東洋経済の雑誌ベンチャークラブから「95年10月、インターネット初の質屋が開店した」と掲載された雑誌が送られてきました。
またASAHIパソコンの96年2月号では、”インターネットの『ハイウエーにモノとお金の交差点』”の見出しで橋本質店のホームページが紹介されました。
以下はその記事の抜粋です。
「昨今、インターネットにもさまざまな商売が顔を出している。だが、昨年の夏ごろまで、質屋にあたる英単語のPAWNSHOPをキーワードにしてアメリカのサービス・ヤフーで検索しても該当するものがなかった。ところが、灯台下暗し。ある日気がつくと、日本の質屋が店を出している。正確には分からぬが、世界でも相当早い時期に、この伝統ある産業が日本からその情報と実務が発信されたのは、まことに喜ばしい限りである。では早速、昨年10月下旬、WWW上に開店した大阪・枚方市にある『橋本質店』の暖簾をくぐってみる。・・」

その当時、店に取材に来た日経新聞の若い記者が言っていました。もうインターネットに関係することなら何でも書けと上から言われています、と。それで日経流通新聞の紙面にパソコンの「コンパック」と並んで、同じ大きさで「橋本質店」のトップページが掲載されました。それは当時の日経新聞社の方針だったというより、コンパックの横に暖簾に丸質の橋本質店のトップページが、パロディーとして面白かったんでしょう。
またパソコンの雑誌でアスキー?に、40社ほどの会社のホームページが載っていて、その中に「橋本質店」が入っていました。マス目の左隣が住友銀行、下が朝日新聞。その他も日本を代表する蒼々たる会社の中に入っていました。これも当時まだホームページを作っている会社が多くなかったからということより、雑誌編集者のイチビリ感だったと思います。朝日新聞の下には朝日新聞グループが総力をあげて作ったと書いてありました。その上に暖簾に丸質の橋本質店です。何か痛快感がありますから。掲載されると雑誌が送られてきて載ったことが後から分かります。他にも数冊が送られてきました。
また当時、リムネットにアクセスランキングのページがあって、順位の横の社名にカタカナやローマ字が多い中に「橋本質店」と漢字で出るものだから、見に行った人が、何だこれは?と思いクリックするのでよけいにアクセスが増えました。週間ランキングが一時跳ね上がり、ヒットチャートを飛ばしてるような気分になりました。

その後ぐらいでしょうか、TBS「筑紫哲也NEWS23」のディレクター米田浩一郎氏からメールがきて、「NEWS23で立花隆を招いて2日にわたり”緊急インターネット”の特集をします。その中で貴店のホームページを取り上げるので同意をいただきたい」と。
これは凄いことになる。これで有名人になると思い方々に電話を掛けました。ところが放送当日にエベレストの麓をトレッキングしていた日本人グループが雪崩に遭い多数の不明者が出るニュースが入ってきました。NEWS23はニュース番組ですから当然、重大事故の報道にあてられ、結局、番組で「橋本質店」のホームページが映ったのは2日目にチラッと瞬間でした。

新聞や雑誌やテレビに取り上げられると、自分が社会的に認められたような気になって、もう舞い上がっていたのですね。ここでガクッときました。
ですけれども、こうした普通の人に出来ない経験を、失敗も含めて出来たのは、このSEの人とインターネットと「質屋」の商売のお陰だと思っています。最初から儲けようと思ってインターネットの話しに乗ったのではありません。ですから自分にとって記念碑的なこのページには、インターネットをした最初の主旨である「質屋」に関わることを書きたいと思ってきました。
 

 
H28.10.20 記     饅頭こわい

今まで質屋をしてきて怖い思いをしたことはありませんが、このごろ質で預かり値を付けるのが怖い時があります。前は初めて見る品物でもおおよそ勘で相場が分かりました。ですから全ての品物を問題なく預かれました。しかしこのごろ値が分からないと本当に分からなくて怖い思いをする時があります。

質屋も歳を取って、眼がうとくなって、新しい品物について行けなくなって、相場がだんだん分からなくなってくると、値付けするのが怖くなります。目隠しして道を歩くと恐怖感がおこるように、危険が危ない。もう毎日危険がいっぱい感です。

昔よく、質屋に婿養子に入った人が言っていました。結婚する前は会社員でまったく違う仕事をしていたので、質物に馴染みがなくて相場が覚えられなく、店へ出て質値を付けるのがいつまでも怖いと。それはそうなんでしょうね。お気の毒ですけど。

質屋の目利きを一言で言いますと、私は質値に差違を付けられることだと思います。高い物はより高く、安い物はより安くです。先ほどの婿養子に入った人が付けると、目が利かないから高い物がそれほど高くなく、安い物がそれほど安くないのです。良い物も悪い物もだらっーと平均的な値を付けるのです。

昔の質屋はこれでもやっていけました。お客さんは素人さんですから、相場より高いから流す、安いから受け出すと言うものでもなく、高い物も安い物も平均して流れてきました。ですから目が利かん質屋でも古物市場で流れ品を処分すると、損する物もあれば儲かる物もあって、平均していけたのです。

しかしこの頃、お客さんが全般にシビアーで、ネットで相場を検索したりしていますので、目が利かん質屋が預かって流れると損が出ます。そうなると質屋はだんだん値付けにビビッてきます。よけいにちびった値段しか付けられんようになってきます。

人は若い時にいろいろな経験をしてくることは有意義なことですが、ただ歳を取ってから転じたのでなく若い時から長くその仕事をしていると、きっとその人の一生の内には油の乗った時期というものがあって、質屋の場合は、その時には必ずしも相場値を付けるものではないと思います。例えば5万円の相場の品物を5万円ですと言うとは限らないのです。

よく飛ぶ鳥を落とす勢いと言いますが、きっとそういう時に人は、物理法則に従って飛んでる鳥でも落とすのですから、もう法則がどうの、質屋の場合なら相場がどうのの話しではないのだと思います。

こんな質屋が10キロ圏内にあると、例えば先ほどの婿養子に入った質屋は、ただもう運が悪いんです。問題はその運の悪い状況をその質屋が自覚できるかどうかです。それで現在、私が自覚すると、私は今その運の悪い質屋の状況にあると思います。それで奇策を考えました。真田幸村です。落語の「饅頭こわい」の、こんな一手はどうでしょうか。

当店は今、ロレックスの金無垢を出されるとこわいです。エルメスのバーキンを持ってこられるとこわいです。1カラットのダイヤモンドがこわいです。2カラットならもっとこわいです。ああー、もう毎日がこわい!
 

 
H28.10.18 記     質屋の幽霊談義

前の 10.12 記の文章の続きです。それで私は前から蔵に幽霊ぐらい出てもいいと思っているんですが、これを江戸っ子の質屋が議論したらこうなるんでしょうか?

「蔵に何も出ねえってぇのはな、そらーおめぇー、質屋として一人前じゃねぇや!」
「おれっちの蔵はな、夜な夜な出てなぁ、そりゃーもう毎晩にぎやかなこった!」
「さすが支部長んとこは、てぇーしたもんだ。で、どんなんが出ますんでぇー?」
「こういうものにゃ伝統と格式てもんがあってよ、出るのはでいてい決まってんだ」
「それじゃお頭、あんまり面白くねえじゃねえですか。どうですAKB48なんてぇのは」
「そんなもんが出るけぇー。そんなら俺とこはキャンデェーズの方が・・」 *
・・なんて。秋の夜長、質屋が一杯飲む話題に面白いんじゃないかと思うのですが。

* (上の会話は幽霊談義の一説ですが、江戸っ子弁が上手く使えてないでしょう。分かっているんです。わたし生まれは京都府下で、今は大阪の枚方ですから河内です。江戸や東京はまったく経験ないので、上手くまねできないんです。すいません。笑ちゃってください。)
 

 
H28.10.12 記     質屋と幽霊

私は今まで幽霊を見たこともUFOを見たこともありません。いわゆる超常現象というものに遇っことがありません。ただ数年前に一度、いかにも何かが起こりそうな、何かが現れそうな気配を感じたことがあります。
季節は秋のちょうど今ごろの時期でした。休日の夕方に河川敷を散歩していると、秋の陽は釣瓶落としと言いますが、みるみる陽が沈んで、急に辺りがどんどんどんどん暗くなりました。

今まで草むらの緑や樹木の紅葉した色彩の風景が、急に光りを失い一転して白黒の世界になりました。その墨色の景色もすぐに暗くて見えなくなり、歩いている道路の30mほど先の暗闇から、急にランニングの人が飛び出してきて、30mほど後ろの暗闇へと消えていきました。

その時、私は道路の左側を歩いていたのですが、前の暗闇から現れて来た若い女性が急に私の側に寄ってきて、「知り合いの振りをしてください!」と、言います。・・えぇ・!。とっさのことに、えぇ・!、だけしか反応できません。そうしたら、すぐ後ろをランニングの人が走りすぎて行きました。そうすると「あの人と違う」と言って、女性はほっとした様子でした。

暗闇から誰かに追っかけられている気配がして怯えているのです。私も何かが出そうな、何かが起こりそうな不吉な予感がしました。女性はいそいで走り去りましたが、その後に走って来たジョギングの人もあわてているような、恐怖で足もとがばたばたしているように見えました。私もこの窮地から早く逃れなければ危ないと感じました。

もう真っ暗で、これは単に陽が沈んで暗いだけでなく、何か悪いものが来る気配がします。危険がいっぱい。警戒音が鳴って赤色灯が回転している。そんな感覚です。側を流れる淀川の川面が、いつもは油を流したようにヌメッと暗く光るのですが、こうなるともうまったく見えず流れが分かりません。

ゴルフ場と淀川の流れの間の河川敷でのことです。ここは2キロほどの直線道路で、サイクリング道にもなっています。西側は淀川の流れで、東側は空堀の林になっていて、その先の斜面の上がゴルフ場のコースです。この道に踏み込んだら途中で右や左に逃げられません。前へ進むか引っ返すしかできません。

先ほどの女性はこの2キロほどの道を、陽が沈む前に突っ切れると考えて北から入ったのでしょう。しかしどんどんどんどん暗くなってきて、あせって怯えきっているのです。暗がりから声をかけられた気がしたというこの女性は狂人なのか。女性の怯えが伝染して、こちらも恐ろしい者が迫っている気配がして怯えました。以前このような怖い現象を経験したことがあります。

それで質屋をやっていて、今までにこのような何か得たいの知れない怖い思いをしたことがあるかといいますと、ありません。このブランドバッグはコピーぽいとか、この人はくさましぽいとか、この取引は何か危ないとか、質屋の勘で危険を感じて止めたことはあります。しかし原因も分からず怖い思いをしたことは一度もありません。

落語の「質屋蔵」は、質屋の蔵に幽霊が出る噂に、質屋の主人が大工の熊公に夜見張りをさせて、真偽を確かめようとする話しです。質屋の主人としては確かでない噂や、正体の分からないものが出るのは困るのです。質屋としては幽霊なら幽霊、お化けならお化けで、きっといいのだと思います。

それで当店の蔵ですが、残念ながら幽霊もお化けも出たことがありません。愛嬌で少しぐらいは出てもいいと思っているのですが。お化けか幽霊が。たまにはうらめしぃーなんて、あっても良いと思っているんです。流しやがってうらめしぃーとか、ね。

そうしたら私は幽霊さんに対応しますよ。古い台帳を持ってきてね。幽さんはこの品物を何年何月何日に入れて利息をここまで払って、この日で流していますよね。それを質屋の私はここまで待ってたんやないですか。それを流しといて、今さら恨めしいなんて。よう出てくるは。どんな顔して出てきたん! なんて逆にやっつけますから。
 

 
H28.10.03 記     限界集落と質屋

少し前のことになるが本屋の新刊コーナーに、養老猛司と隈研吾の対談本が平積みしてあった。本の名前は「日本人はどう住まうべきか?」。内容は住居論、住まい方についてである。表紙を巻いている帯に、「限界集落は減りませんね! それは住み良いからですよ!」、確かこのような文言があった。

これは面白い考えやなと思い、その文庫本を買って早速読んだ。しかし最後まで読んだが、そんなことは一行も書いてない。よく表紙を巻く帯に本の中の一行が使われていることがあるが、この本に限っては、それらしき文言も近い思想もなかったように思う。

見出しの帯に偽りがあるわけだが、きっと対談ではこの話しは出たのだと思う。しかし書物にするとこの文言は問題がある。誤解を生じやすい考えである。だから本文には入れなかったのではないか。帯は出版社が本を売らんがために巻くものだから、対談した当人に非は及ばない。こうしたことではなかったかと想像した。

このように表だって書かれないが、しかし書かれないことの中には大事なことがある。例えば住む所について言うと、人は死ぬ最後の時に、病院のベットの上より、緑の豊かな限界集落の古民家のような所がいいと思う人はいるのではないだろうか。

毎日が晴耕雨読で、昼に少しばかりの野菜を作り、夕に野良で夕日をながめ、夜に庭で満天の星を見ていて倒れ、朝に霜の降りた前庭でこと切れているのを牛乳配達の人に発見される。西行の桜の下にてではないが、こうした最後が「願わくば」の人はいると思う。

それで話しは変わって質屋の場合です。質屋はどう住まうべきか。どう終うべきかについてです。既にして店の状況は限界集落で商売しているに近いです。では当店の「願わくば」が、どうであるか?いろいろと考える今日この頃です。
 

 
H28.09.25 記     質屋の夜逃げ

前の 9.20 記の文章の続きです。当方としてもこのままお客さんにほっておかれたのでは帳面が浮いたままでケリがつきません。困ったものです。
それでお客さんに早く取りに来てもらうためにこんな冗談を考えるのです。例えばお客さんの留守電に、「これは決してよそに漏らさないでくださいね!ないしょの話しですから・・実はいま当店、夜逃げを考えているんです。だから私が、蔵の品物を持って夜逃げする前に早く取りに来て下さいね。今ならお返しできますから」・・なんて入れてみようか、と。

それでこの質屋の夜逃げですが、日本質屋史上、これまで夜逃げした質屋はあっただろうかと考えるのです。
銀行は金融恐慌の時代に取立とか貯金封鎖とかあったわけですが、質屋はあの店は危ないと風評が立って受け出しのお客さんが殺到して、店が受け出し封鎖するということはあり得ないのではないか。質屋は出してもらったら金が入るわけだし、取立にあって倒産する、あるいは預かっている蔵の品物を持って質屋が夜逃げするということは、やっぱし考えられないと思うのです。そういう意味でも質屋は利用者にとって安全安心のシステムです。しかしそれでも、もし私が本当に夜逃げしたら、それは日本質屋史上初になります。前代未聞にしてきっと空前絶後。いや、大丈夫ですよ。しませんから。
 

 
H28.09.20 記     待っている人がある

独居老人、ホームレス、引きこもりなど世間には孤独な人が多い。孤独がすべて不幸なわけではないとしても、仮にその孤独感を薄めるものがあるとすると、それは自分を待っている人がいる、あるいは自分を想っている人がいる、そうした意識が持てるかどうかではないだろうか。

当店はある質のお客様から長く指輪を預かっていて、数年前から振り込みされてくる利息を、元金を返すための仮受金に計上していた。仮受金の合計が元金に近づいてきたので、お客様に一度来店していただくように連絡を取っていた。

それでも振り込まれてきて0を越えたので、お客さんの留守電に「指輪をただでお返しして越えたお金を返しますから連絡下さい」とメッセイジを入れた。振込は止まったが、しかしその後に連絡はない。再度、留守電に入れたがそのままである。

ただで品物を返してお金も渡すと言っているのに、どうして連絡してこられないのだろう。忙しいからか、あるいは病気して入院しているからか。あるいは返してもらう金なんか俺は当てにしてないよと、質屋の私に格好をつけているのか?・・そんなことはないか。

私はお客さんからの連絡を待っていて、待っているからそのお客さんのことを想う状況にある。案外そのお客さんにとって、質屋の私でさえ自分を待っている者であり、自分のことを想っている者であって、悪い気分でないのかもしれない。そんなことを考えると、質屋は質物を介してお客さんの孤独感を薄めるはたらきをすることもあると思う。
 

 

H28.09.17 記     コンサバとマカロン

質屋業報誌の記事に腕時計の紹介欄がある。
もう何年も前のこの業報の新製品の紹介記事に、コンサバのアイテムが・・・と、こんな調子の助詞以外ほとんどカタカナの文章が5行ほどあり、その内容がまったく分からなかった。どこかの時計雑誌からそのまま引っぱってきてあって、内容より言葉のファッション性が重要なのでこれはそれでいいのだろうけど、例えばこのアイテムは品目のこととして、コンサバの意味が分からない。

近くにいた人物にコンサバの意味を聞いたら、「塩サバ」なら食べたことがあるがと返された。コンサバを調べるとコンサバティブの略で、食べ物でなく保守的なという形容動詞だった。

先日はマカロンで引っかかった。
知りあいの人がアメーバーブログをしていて、そのブログを読んでいくと、最後にマカロンのところをクリックしてねと書いてある。それで投票しょうとして探すが、マカロンがどこなのか分からない。何か投票用のホルダーかネット上の何かを、こうしたブログの世界ではマカロンと言うのかと考えたりもするが、ビスケットかクッキーの絵のところに「このブログに投票する」とあるから、これですかとコメントに書き込んだ。

そしたら返答のコメントがあり、この絵のビスケットのような物がマカロンと言うらしい。マカロンはホルダーか何かでなく食べ物でした。森永製菓のマリーとか知っていますが、マカロンは知りませんでした。こんど食べてみます。

 

 
H28.09.09 記     これはこれでいいのかな

振り込め詐欺の事件を聞くたびに、これほど大きな社会問題になり前から注意されているのに、まだ被害にあう人がいるのがいつも不思議におもう。
また嘘の投資話で何億も金を集めた詐欺事件が報道される度に、まだそんな甘い話しに大金を出してだまし取られる人がいるのか、これも不思議におもう。

日本は昔から義務教育がなされ、今70歳の人も80歳の人も、中学卒業程度の学力がある。だから認知症でない限り普通に考えると、こんな振り込め詐欺やアホな投資話に引っかかる人がこの社会にいる筈がない。

にもかかわらず引っかかる人がいるのは、これは人の知識の問題でなく心の問題だからだろう。子供が難儀なときに助けてよく思われたい。また親切にしてくれる人を信用したい、等の。
 
そしてこれは上のこととはまったく別の話しであるが、質のお客様の中に、孫の携帯の費用をつくるのにネックレスや指輪を質入れするお婆さんがたまにある。孫には親がいて働いているのだから、なにもお婆さんが苦労することはないと思うのだが、孫の役に立てることが嬉しいのだろう。

この品物が先で質受け出されるお金は、お婆さんが受け取った年金から支払われる。結局はお婆さんの年金が孫の携帯代に使われる。これはこれでいいのかもしれないが、このお婆さんの必死な心と、振り込め詐欺にあう母親の心とは近いのではないだろうか。
  子を思う心に嘘はないものと詐欺にあう親のいたましき心
 


 
H28.08.26 記     暗がりで渡す

宝石や貴金属を質入れする、特にご婦人のお客様は、指輪1本だけ、ネックレス1本だけということは少なくて、たいがい数点まとめて持って来られます。

私は1点づつ鑑定して値段を出していくのですが、中にときどき贋物のダイアモニヤの指輪があります。
その場合は、この立爪の枠はプラチナ900 で5g あり、15.000円 ほどになりますが、中の石はダイアでなく贋物ですから値打ちがありませんと言います。そうすると前から贋物だと知っていた人もあり、今まで知らずに本物のダイアモンドの指輪だと思っていたので驚く人もあります。

また中に、「どうせそんなことやと思てた」と言うご婦人があります。ではこのご婦人の場合、当該指輪の授受はどのような状況下で行われたと考えられるでしょうか?・・例えば、
  わからへんダイアモンドでないけれど暗がりで渡すのなら可
 

 
H28.08.17 記     目つきが悪い

先日ある道で、私の側を曲がって行くバイクがありました。乗っている人のヘルメットの下の顔が、もう何十年も会わない同級生に似ているような気がして、一瞬眼を凝らして見ました。

この私の目つきが、バイクに乗っている人には、何か走り方を咎め立てされているように見えたのでしょう。曲がって行った人が、急にバイクを止めヘルメットをぬいで、私を追っかけて来ました。思った人と違い、もっともっと若い人でした。
「なんじゃお前!何がいかんのじゃ!」
不意にグーッと近づかれて、理由が分からず身の危険を感じました。しかしただ見ただけのことで、どうしてそこまで怒るのか。

これは一つには、普段から私の人を見る目つきが良くない時があり、相手を苛つかすことがあるからのようです。何か訝るような、咎めるような、人を不愉快にさす目つきをする時があるようです。だからと言って、そこまで怒るのはおかしいのですが。

店でも質のお客さんの顔を見て、この人は前に取引のあった人のようだけど、思い出せないで眼を凝らして見る時に、人を疑うような、詮索するような、そんな悪い目つきをしていることがあるようです。急に嫌な顔をされるお客様がありますから。

昔はこんなんでなかったのです。もっと優しく、微笑みかけるような、そんな目をしてお客様に対していたのです。それで橋本質店て、感じいいわぁー!。
それが枚方市、寝屋川市のご婦人のお客様が特に多かった一番の理由ではないかと思っています。しかしもうそんな目は出来ませんね。
  君からはいつも笑顔ねと言われたが車窓に映る今暗き顔
 

 
H28.08.07 記     小説、「白夜行」に悪人の質屋が登場する訳

小説に出てくる人の名前は架空のものですから、作中の悪い人物の名前が自分と同じでも特に気になりませんが、この小説のように職業まで同じですとやはり気になります。

「白夜行」、に登場する悪人の質屋の名前が、私と同じ「洋介」で、前にこの小説を読んだときにとても嫌な気がしました。それで作者は小説を書くのに、なぜ悪い人物の職業を質屋にして、その名前を洋介にしたのかを考えました。それで次のような寓話を作りました。

むかしむかし、大阪の質屋にそれは美しい娘がいました。子供のころから美しく評判の子で、中学に上がる頃には近郷の者が一目見ようと校門の前に集まって人垣ができたほどでした。
それほど美しい女の子ですから、同じ中学の男子生徒はこの子に見られるだけで、もう胸がキュンとなって、中には放課後にこの女生徒の家の質店の前を、うろうろする男の子が何人もいました。

この女生徒の実家の質屋は、お客様が少なくていつも暇なのですが、ご主人は店の前をうろつく男の子を見つけては出て行って、イジメルのを楽しみにしていました。
「君はさっきから店の前を行ったり来たりしているが、娘になにか用か。君の名前は。クラスは何組や。担任の先生の名前は。家の電話番号は。親はこれを知ってるのか。」と、たたみかけて問い詰めるのです。

そうすると男子生徒は、「もう堪忍してください」と、言って逃げて帰ります。奥さんは可哀想なことしたらんときいなと、たしなめるのですが、ご主人はこれが唯一の楽しみで長年続けていました。

こうしてイジメられた男子生徒の中に、実は大人になって小説家になった者がいたのです。それがこの「白夜行」の作者です。この作家は中学の時のあの屈辱感を、あのイジメられた恨みを、悪い質屋の主人を小説に登場さすことで晴らそうとしたのでした。いやそもそも、その恨みを晴らすために作家になったのかも知れません。

またその質屋の名前を洋介にしたのは、小説を書くにあたってネットで質屋を調べると、当時ホームページを作っている質店が少なくて、当店が当たり、店主 橋本洋介とあったから、この洋介にしようと。こうなった次第ではないかと、私は思います。
この仮説が当たっていたら、いい迷惑ですけど。
 

 
H28.07.16 記     質蔵文庫 その5

このところ雨の日が多く、質蔵文庫はほとんで一日中前面を透明のナイロンシートで覆っています。それでも本を借りる人は透明なシート越しに欲しい本を探し、自分でナイロンシートの紐を外して棚から本を抜いて借りていかれます。

ご寄贈いただく本はありますが古い本や、大きくて重い本、内容の難しい本は、並べてもあまり借りる人がありませんので、一部しか並べていません。
いま一番よく借りられる本は児童書です。絵本や童話集、こうした本がよく出ます。平均して軽くてやさしい本がよく借りられます。

こうして質蔵文庫で本の貸し出しをしていると、詰まっていた棚がそこだけ抜けて隙ができ、借りられたことが分かると楽しくなります。また並べても出ていかないと面白くなく、そうした傾向の本は自然と敬遠します。新しくて、軽くて、上品で、やさしくて、面白い本、歓迎です。一部の漫画でも結構です。 店主
 

 

H28.07.09 記     出会い頭の事故

前の文章の金色の宝石箱の件です。
宝石箱を持って帰って検査をした地金屋さんは、いつも来る人がその日は忙しくて来られないので変わりに来た人です。しかしこの人も以前は他の地金屋さんで働いていて、地金取引のベテランです。そのベテランの人が宝石箱を持って帰って調べて、
  Ag 41  Au 28  Ni 29
  Ag 9   Au 9    Ni 80
と数値を書いて、正確には溶かさないと解らないと言うから、後はもう私の度胸しだいなのだと受け取って質で値をつけました。しかし最初からそんな話しではなかったのです。

後日、宝石箱は流質して別の地金屋さんにX線分析してもらったところ完全にメッキでした。その後しばらくして、この問題の地金屋が店へ入ってきましたので、あれはメッキではないか。君が前に検査して報告したAu 9 や Au 28 の数字は何だったのかと問うと、数字はそう出ますから金成分は、・・あるから・・と答えます。
もう頭にきて。もちろんメッキでも金メッキなら金成分は検出されるやろうけど、君とこは科捜研か。沢口靖子の。金成分が検出されても・・。俺は科学捜査研究所に出しているんやない、質屋が地金屋に出してるねんやないかと言うと、頭をかしげて出て行きました。
しかしこの事故は、地金屋は検査報告に来た時に、金メッキバリとしてお返しさせていただくことになります、とも言っているのです。しかしまた同時に、検査数値を書いた紙を出してもいます。その数値の方を私が宝石箱に目が眩み、欲でいいように受け取ったとも言えます。

それで昔の、若い時のこんなことを思い出します。古物市場へ行くと、年配の質屋が流れ品を持って売りに来ていて、思うような値が付かないから怒るのです。安い、アカン。
しかし見ていて思うのは、もうその質屋は目利きできていないのです。それを買い手が安い値を付けると怒るのですが、完全に自分がくさんでいるのです。
市場は口の悪いところですから、目利きも歳いくとそうなるか、自分の物となるとそれほど目が曇るか、と言って楽しむのです。そうすると一層怒って、もうよろしい! もう結構です!、とますます怒って持って帰ります。
目が利かんようになって、質でくさんで、市場で怒って、歳を取ってこうなったら質屋も終わりだと思いました。

それで今回宝石箱でくさんで、あの地金屋に腹を立ててもなぁー、と思うのです。
また上司の地金屋にX線検査のことを問うても、パカーンと蓋が開いて、横のモニターにペッペッと数字が出てと答える。どこまで問うてもパカーンとペッペッだけしか答えんとバカにしよって、と腹を立ててもなぁー、とも思うのです。この上司は宝石箱を眼の前にして、もう既に事故は起こってしまっているからまともに答えられないのです。部下は検査数値を書いた用紙を出していて逃れようがない。
しかしもう、起こってしまったことですから。怒っても、腹立てても。今回の間違いが起こった原因の一つは私が胸のレントゲンのようなX線検査と、貴金属の成分を測る場合のX線分析とをごっちゃにしていたことにありますが、結局は全般に目利き能力が落ちているからでもあるのでしょうから。

昔に古物市場で、自分がくさんで怒る年配の質屋をみっともないと思いました。ああはなりたくないと思ったものです。だから今回の失敗には腹を立てないで、歳を取って目の曇った質屋と、少しズレた地金屋とが、出会い頭にぶつかって事故になった。そう思って気を静めることにしています。

 

 
H28.06.24 記     特集のネタ

若いとき(昭和47年頃)に京都の質屋組合の広報部に入ると、一回りほど上の先輩は、次号の業報の特集をどうするか、それでよく頭を悩ましていました。
質屋業報の紙面は理事長の挨拶とか、役員の紹介とか、総会の報告とか、そうした記事ですが、時期によって記事が少なくページが埋まらないときがあります。それでも一応は業報の格好をつけなくてはいけませんので、何か特集を組んでページを稼ごうとしました。しかしその特集のネタがなくて決まらないことが多く苦労していました。

その後、自分も編集をするようになって実際に特集のネタさがしをしましたが、特集が決まったら、後は座談会を開いてテープ起こしをするなど、何とかなりました。
そうした経験から、実際に毎日店で質屋の商売をしていて、これは質屋業報の特集のネタになるなと思うことがあります。それで5年ほど前に、現実に自分の店で起こったことを、当時はまだ入っていた京都の質屋組合の広報部の人に、ネタを渡す意味もあって、京都の質屋20軒ほどに、下記のような質問のメールを打ちました。

『 枚方駅前の橋本洋介です。教えてください。
金色の宝石箱の持ち込みがありました。
金しょうの刻印はなく重さは1200グラム。W-15cm H-12cm D-11cm 。
全体に20〜22金のような色をしています。磁石が反応するところと反応しないところがあります。お客様は12金と説明を受けて購入したとのことです。
品物を預かって地金屋さんにX線検査してもらったところ、
例えば、 Ag 41  Au 28  Ni 29
       Ag 9 Au 9 Ni 80  と出ます。
他にも部所によって値はまちまちで、試しに脚部の底を少し擦ると白い地肌が出てきてニッケルとのことです。そして地金屋としてはこの時点で金メッキバリであるとして品物をお返しさせていただくことになりますが、正確には溶かさないと分かりませんとのことでした。
それでこの場合は金がどれぐらいあると普通考えたらいいのか教えていただけませんか。宜しくお願いします。』

私はこのメールを打つ前に、既に箱の側板と角部のAu 28 と Au 9の検査数値から、一か八かで値を付けて質で預かっています。そして検査をした地金屋と同じ会社の上司で、以前から買いに来る人が後日店に来た時に、宝石箱を見せてX線検査の説明を聞きました。しかし何度聞いてもX線検査は蓋がパカーンと開いて、横のモニターにペッペッと数字が出る。それだけです。また次に来たときに同じことを聞いても、蓋がパカーンと開いて、つまり炊飯器の蓋のように上部がパカーンと開いて、数字がペッペッと出る。また次に聞いてもパカーンでペッペッです。いくら聞いてもそれ以上の説明をしません。

この上司の返答の様子から、すでに間違いは起こってしまったのだと思っていました。ですから京都の質屋の人にメールを打つ時点で8割方は駄目だと分かっていました。
しかしこの間違いが起こった原因の一つの、(この時点で正確に分かっていたのではないのですが)、X線検査という言葉から、胸のレントゲンのように表から裏へ透過して成分を計るイメージ、こうした私の間違いは私だけでないかも知れず、この質問のメールに対する返答のやり取りを組合員が共有すれば、紙の業報誌はなくなっても、貴金属取引についての良い特集になる。そう考えてメールを打ちました。
しかしその後、何の返答も質問もありませんでした。残念ながらメールを受け取った広報部の人達は、それが自分達に対して打たれた特集のネタだとは思わなかったようです。
 

文責  橋本洋介

 
 
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