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「質屋の風景」 第一冊
 
01.05.17 記
        質屋組合業報誌

このホームページを作って6年になります。今までにいろいろな質問のメールが来ました。なかに数回、「大学で金融史を専攻している。質屋さんについて知りたいことがあるので幾つかの質問に答えて欲しい」という学生さんからのものがありました。しかし「公益質屋との競合の歴史」など、私に解らないものもあります。それで、質屋を研究するには組合業報誌のバックナンバーが良い資料になる、非売品で一般には出ていないが東京や大阪の質屋組合にあるから、「研究のため」と組合事務所で言われたら、閲覧できるのではないかと案内しました。

質屋業報誌は現在、東京の組合が600号、大阪の組合が450号、京都の組合が90号など、各組合の創設時からの歴史を刻んでいます。B5版、20〜100ページ、月刊や季刊です。書籍としては質屋の素人編集ですから必ずしも良い出来と言えないかも知れませんが、その時代の質屋が考え苦労した記録です。以前この業報の1冊をある先生に読んでいただいたら、「このバックナンバーは質屋はんの出てくる小説書く下調べにいいな」といわれました。例えば司馬遼太郎が歴史小説を書くのにその時代の片隅の資料まで神田の古本屋に集めさせて片っ端から読んだようにです。このバックナンバーが古本屋さんで幾らの値がつくか試したことはありませんが質屋を知る資料としては一級品だとおもいます。

業報誌の発行は質屋組合の広報部が担当します。組合の機構は各組合によって多少違いますがおおよそ、理事長以下、副理事長、理事の組合議決および執行機関と、その下に広報部、青年部、厚生部、事業部、総務部などがあります。

私は以前、京都の質屋組合の広報部に25年ほどいましたが、入った当時(昭和47年頃)私と同年輩の人が1人、他に30才代の部員が4人の合計6人でした。30代の先輩は京都の大学を出て親の店を継いだ方で、商売人にしては駆け引きのしない真面目なタイプでした。月に一度組合事務所で編集者会議がありましたが、業報発行の打ち合わせより雑談の方が多かったです。例えば、質の利息(質料)は何を基準に決められるべきかという議論がありました。
考えとして、
利息を安くするとお客様が増える。結果増収になる。
いや利息を安くしてもお客様は増えない。すると減収になる。
ここまでは普通の議論ですが、次に、
利息を安くすると経営の成り立たない店が出る。
すると廃業する店が増えて、店舗数が減少する。
自然界における野生生物に見られるように、
種は個体数がある一線を越えて減少すると、絶滅が避けられない。
確かトカラ列島の野生馬が例でしたか、
つまり質屋も店舗数が激減すると、あとはもう一気に絶滅へと向かう、と。
だから質屋が業種として生存するためにはある軒数が必要である。
ではその限界店舗数の存続のために確保せらるべき利息とは。
ここで茶々が入る。
利息を考えるのにケインズでもマルクスでもなく、
なんでここでダーヴィン(進化論)が出てきますねん。
こんな調子ですから編集会議はいっこう進まず、
結局、原稿のことはその時の広報部長が苦労されていました。

業報の発行で一番難しいことは原稿を書くことです。仮に座談会を開いて自由に話し合ってもらっても、2時間の座談会のテープを原稿に起こすには、もう一度聞くだけで2時間掛かります。そして文章にする、文章を書くということの難しい点は他のことをしながら出来ないことです。毎日の質屋の仕事ですと、例えば帳面を書くとか、質物を整理するとかは、途中でお客様が来られたら中断して、帰られたら先ほどの続きから始められます。しかし原稿はいったん中断すると、すぐに元へ戻れない、なかなか以前のペースがつかめません。はたしてこれで文章として成り立っているのか、意味は通じているのか、繋がっているのか解らなくなります。それで昼間の仕事中は無理ですからどうしても深夜になります。締め切りが迫り連夜になると次の日の商売に差し障りが出ます。朝お客さんが来られると、ボーッとしていて、例えばダイヤの色が解らない、計算が出来ない、相場が浮かんでこない、帰られてから、しまった、えらい損やと。

先輩の話では、こういうことが続くと、奥さんが「あんたはアホや! 店のために少しもならへんのに」、とかなんとか言い出すらしいです。それでストレスがたまる。しかしよく考えてみると確かにその通りや、広報部長として理事会には出んならん、全国的な集まりには顔出さんならん、マイナスばっかしやないか。大きな店の大将のように番頭が居るわけでもなし、俺はこんなことやっている身分やないねん。確かに当時の部長さんはそのように思われたこともあったんだろう、3年ほどで次々と部長の職を交替していかれた。

私が見ていた昭和57年ごろまでの組合では、広報部員であることが自店の商売のマイナスになることはあっても、プラスになることはありませんでした。当時、京都の業界でトップを走っているような人は広報部など見向きもしませんでした。ですから逆に広報部には何か一種、美しい日本の質屋の私 ?みたいなところがありました。その後、我々の仕事にとって広報活動がより重要になるに連れ、広報部にマルチ的な能力が求められていきました。そのあたりから「広報部」そのものが質的に変わって行ったように思います。

以前の業報誌は組合執行部の機関誌というよりはもう少し自由で、多少いろいろな考え方も載っていて、質屋のことを広く報ずるシンボリックなものであったように思います。ですから質屋組合を社会という海を行く船団の旗艦に例え、この業報誌をそのマストに翻る一丈の旗と位置づけていた時代があります。それで、組合本部(旗艦)・業報(旗)・組合員(船)の構図として解りやすかったわけです。また最近はあまり聞きませんが、以前は東京の質屋業報を業界の朝日新聞といい、大阪の質屋業報を日経新聞といいました。それは東京の業報が中央にあって権威がある、また論調がリベラルなのに対し、大阪の業報は商都大阪だけに商売に密着した役に立つ情報が多い、質屋の本音が出ていて面白い、そうした内容によったのだと思います。私のいた京都組合の業報は、当時先輩が言うには(京都では朝日や日経より京都新聞が一番読まれていることに例えて)、京都の業報も質屋業界では京都新聞と同じで地方紙である、しかし地方紙には地方紙の行き方がある。このようになかなか格好いいことを言いました。しかし東京や大阪の質屋業報を気にしていることは確かでした。いつも編集会議のテーブルには東京や大阪の業報があったのですから。

これはテレビで全国都道府県駅伝競走を見ていて思ったことですが、この駅伝ランナーの気持ちと地方の業報編集者の気分とは似たものがあります。地方は大都市に比べて恵まれない、テレビの全国放送に出るのはこんな時しかない、それで頑張る、そして日頃から練習する、そうしたことが長距離のレベルを全国的に押し上げる。こうした構図が質屋の業報誌についても言えるのではないかと。地方の質屋がその組合へ上がって業報の編集をすることは苦労があります。それを支えるものは前を行く東京や大阪の、具体的には質屋業報の背中でしょう。東京の質屋は商売の上でやはり有利です。例えば東京の地価は高い。一般に不動産の価格とその上で質屋が商える動産の価格は比例します。富のレベルを映しますから。東京は扱い額が高い分、収入が多い。地方は扱い額が低い分、収入が少ない。しかし使う電気代は同じ、食う米の値段は一緒や。もちろんそんなことはどうしょうもないことです。しかし同じ質屋なのに腹立つなとか。それで何くそと、また参考に東京や大阪業報を読む。だから案外、東京や大阪の業報の一番の読者は他の組合の業報の編集者だったかもしれない。トヨタの車を一番よく知っているのは日産の技術者だと言うようにです。そうした目標に対する頑張りが質屋のレベルを全国的に押し上げてきた。これまで組合の業報にはそうした面もあったのではないでしょうか。

素人が業報誌を発行することは本当に苦労があります。ですからこれほど苦労して出している業報誌を果たして組合員はどれだけ読んでくれているだろうか、あるいは実際に組合員の為になっているのだろうか、そうした思いが編集者には絶えずありました。また記事が誤解を生まないだろうか、という懸念もありました。組合という小さな世界ですから何かの意見を書くことは誰かを非難することになりかねません。また何度も書き直していると、先入観が出来上がってしまって、その文章が他の意味にも取れるようになっているのが解らなくなります。校正でも気付かず刷り上がってから、まずい、しまったと。あるいは業報を組合員以外の誰かが読んでいて質屋の不利益になることはないか、という懸念もありました。そうしたことを考えると一層何も書けなくなったことがありました。
 

 
01.03.10 記
       続・質屋の起源

前項で質屋の起源について書こうと思いましたのは1月15日の日経新聞のコラムを読んだのがきっかけでした。
「質屋の起源は、我が国初の法典である「大宝令」(701年)の中に求められる。金利は・・質物は・・など現代の質屋営業の基礎になる規定が設けられている。貧民救済が質制度の原点で、つい最近まで庶民金融の代表業種だった・・」
このコラムでは質屋の起源を奈良時代としています。しかし奈良時代ではまだ商業経済が未成熟で質屋営業として成り立っておらず、それで一般にこれまで我が国で商業が盛んになった鎌倉時代を「質屋の起源」としてきましたと前項で書きました。そして当初私は、これまでの鎌倉起源説から奈良起源説へ変わることで、現在の質屋が商売上失うものはあっても得るものはないと思っていました。しかしその後、質屋とは何かと考える上で実はこのコラムの筆者は奈良を起源とするところに、もっと大きな質制度の原点といったものを見ておられたのではないかと考えるようになりました。

物を担保に取って金を貸す。この行為の内には本来人の世の負の部分があります。もちろん法も経済も一面としては負を見すえ、負を正に変えるシステムです。質屋もまたそのシステムの一つですが、庶民金融の貸借の間にはどうしても負が色濃く表れます。今は「質屋営業法」ですが昔は「質屋取締法」でした。金融システムの定理である「人も物も変わるものだ」とは、金を貸す側もまた変わるものだの意味にもなります。昔は貸すときは揉み手で、後はひっくり返ってわずかの貸し金の形に値打ち物を取り上げてしまうことがあったかも知れません。鎌倉・室町時代に商業が盛んになったということはその時代に人々の欲望がそれだけ強くなったということです。そして普通は強い者が弱い者に金を貸すのですから、そうしたことに対して時の幕府が法の網をかぶせる必要が出てきた。行政の必要からその業を何屋と規定して取り締まったことは十分考えられます。その鎌倉時代を質屋の起源としますと、質屋にとっては取り締まりの必要のあった人達が御先祖様ですから、これは相当ひどい出発点になります。

これが奈良起源説をとると随分変わります。奈良時代に国の礎を築こうと遣唐使が命がけの航海の末に大陸から持ち帰った当時最先端の社会制度(民の救済システム)、それが質業であった。その後、奈良の寺で日本の風土に合うようにシステム改良され時代が下るにつれて全国に広まった。こうなりますと「質屋」の出発点が随分かっこう良くなります。仏のふところで育まれたわけですから、負ではなく正と言いますか、善なるものの内で産声を上げたことになりますから、出発点としては誠に結構です。この説は質屋の若者の士気にいいですし、「質屋」の名前のブランド戦略から言ってもこの奈良説の方が有利です。

起源をどこに求めるかは実は「質屋とは何か」を自身に問うことになります。ですから質屋個々人の問題ですが、いま仮にこの「奈良か鎌倉か」の起源論を質業がはらむ「正と負」の度合いを計る試験紙に使えたなら、起源論争もまた別に意味あることだと思われます。それで質屋の起源を考えるのに縁起絵巻といったものを考えるのも方法だと思います。「信貴山縁起絵巻」のようなストーリー性のある絵巻物(漫画でもいいのですが)のことです。もし同じように「質屋縁起絵巻」というものを自身が描くとしたら絵巻物として一番おもしろい時代設定をいつにするか、物語の筋をどうするかを考えるのも方法だと思います。
 

 
01.01.20 記
        質屋の起源

日本で質屋が興った時代については産業や商業が盛んになった鎌倉・室町時代とする考えと、奈良時代に遣唐使が伝えたとする考えとがある。奈良時代とする考えでは留学僧が唐から質の仕組みを持ち帰り、最初は奈良の寺でおこなわれていたものが時代が下るにつれて広まったとする。その奈良時代において、質屋の流質販売権と、質流れ品の流通市場のことはどうだったのだろうか。

本来、質屋のシステムがすぐれているのは、3ヶ月という比較的短い期間で受け出し、更新、流質と、その都度いったん貸借をチャラにして変化に対応して先へ進んでいけることにある。流質期限を過ぎると質置主(お客様)は権利を失い、質屋は質流れにして売却処分ができる。これは銀行が不良債権を流すに流せない、売るに売れない、金がまわらない、だから貸し渋りをする。結果資金繰りがつかなくなった企業が倒産する。こうした銀行業務の悪循環に対して、質屋は流質期限の過ぎた物で損をするのは質屋の失敗。損は損で仕方がない。流して売って損して、忘れて先へいく。だから次に貸し渋りをしない。結果お客様に迷惑を掛けないことになる。本来金融システムは「この世に不変なものはない、人も物も変わりうるものだ」を前提にするといわれるが、この公理に速やかに対応できる流質処分権と、古物の流通市場の成熟は「質屋」の成立条件であると考えられる。

10年ほど前、バブル崩壊後に入質のラッシュが起こった。バブルがはじけた後、最初に入質に来られたのが羽振りの良いときに高級時計などを買っていた自営業者。次に株でもうけてブランド品などを購入していた主婦。他にも高額品を入質されるお客様が急に多くなった。そして流質品も多くなり売却先の古物の競り市が当時出来高を更新しつづけた。古物市場は持ちこたえられるだろうか、中古相場は暴落しないだろうか、と危ぶむ声もあったが、少し下げたとはいえ相変わらず買い手はあった。それは経済がある日をもって一律に変わるわけではないから、バブル崩壊後の景気の収束局面においても、バブル時に購入された高価な時計や宝飾品を買う消費者はまだあったわけである。そしてもちろん質流れ品を新しい消費者に提供する流通システムが既に出来上がっていたこともある。動産について質屋が果たしたこの軟着陸機能を、もし銀行が不動産についてできたなら、日本経済に「失われた10年」はなかったのではと思われる。

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あれはもうどれぐらい昔のことになるだろう。
大和盆地の小さな村で秋のとりいれが終わり柿が熟すころ、
鍛冶屋の治介が幼なじみの百姓の与作から、
「この鍬の柄なおしてくれ、来年の春先まででよか。
このごろ寺で刀預かって金貸すちゅうが、
おれの家にそんなものはねえ。
この鍬で少し貸してくれねえか」
と頼まれて金を渡したのは。
それが年を越しても取りに来ない。気になって治介が、
「あの鍬、欲しいちゅう者がいるが、このさい売るか」
と与作の家へ口ききに行きよった。
あれはそう、都が平城京へ遷ったころだから、
かれこれ1300年も昔のことになるだろうか。

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質(担保)取引とは。
値打ちのある品物を預かって、その人が今必要とするものを渡し、
将来返してもらって預かったものを返す。
相手が返さなかったら預かったものを自分のものにする。
これは人間の最も基礎的な行為の一つである。
人類が森からサバンナへ出、二足歩行を身につけ、
火の使用、石器の使用、土器の発明、
進化の過程でいうと、その次ぐらいに獲得した能力で、
その質能力のあるおかげで人間社会はここまで発展したのだと思う。
今でもサルは質行為をしない。
朝森でチンパンジーがゴリラから大事な物を預かってバナナを一本わたし、
夕方にパイナップルを持ってきたら返してやる、
などとやっていると聞いたことがない。

無責任に最大限大げさに言えば、
質行為とは、人とサルとを分けるものだと言える。
基本形がそれほど古いから、
人類の長い進化のどの時点をもって「質屋の起源」とするかはまことに難しい。
この問題を社会経済学から考えるか、文化人類学から論じるか、
はたまた人類の起源をさぐるDNAにおよぶ生命科学から解き明かすのか、
それほどまでに奥が深い。
そこで質屋の先人はきっとこう考えたに違いない。
「質屋」と言うかぎり「屋」である。
「屋」である限り業としての社会基盤が整い、
商いが一定の産業として自立したその時点をもって起源にしょうと。
調べるとそれがおおよそ鎌倉時代(13世紀)であった。
だから「質屋は700年の歴史」があると先輩達は言ってきたのではないだろうか。

起源をどこに求めるかは多くの場合そのとらえ方による。
むかし学校の歴史の授業では確か中国文明の歴史は4000年であると教わった。
ところがこのごろNHKのテレビでは中華5000年の歴史といっている。
これは中国の歴史は4000年だが、
調べてみると中華ラーメンの歴史は5000年であったからというのではないだろう。
「中国」でとらえるか「中華」でとらえるか、
とらえ方が変わって文明をさかのぼる年月が1000年も変わったのだろう。
いや、歴史のことはよく知らないが、
それはきっと、とらえ方を変える必要が出てきたということだろう。
そうすると質屋の起源も、つまりは「質屋」のとらえ方にあるとすれば、
いま従来の鎌倉時代とするとらえ方から、
奈良時代とするとらえ方に変えるその必要とは何だろう。

    ちはやぶる神代も聞きしなりわいは物のあわれのしる人ぞとは

 

 
01.01.06 記
        饅頭を食べたんだろうか

もっとも古い記憶のなかに、親に連れられて行った古物市場のことがあります。一枚の写真のように市場でのその場面だけを憶えているのですが、季節は何となく初夏だったとおもいます。木の階段を二階へ上がると板の間で、その手すりの近くに上の面がガラスの蓋になっている30センチ四方の饅頭の入った木箱がありました。くず餅・いなか・じょうよう・おはぎ・きんつば・六方焼き。そうした美味しそうなものが並んでいました。欲しい人はガラスを開けてとり、お金は自分で下の抽斗へ入れるようになっていたのだとおもいます。この饅頭が食べたくて階段を一つ降り手すりにつかまってジィーッと見ているのです。記憶はここまでです。この先だれかが「ぼく欲しいのか」と取ってくれて私は食べたのか、結局は食べられなかったのか、それは解りません。4才ごろのことですからもう半世紀近く前のことになります。いまだに饅頭を食べる時この場面を思い出すことがあります。

アニメの連続するセル画が時間の経過とともに全て抜け落ち、何かの拍子にその中の一枚だけが出てきたように、古い記憶をまるで昔の写真を見つけたようにふと思い出すことがあります。そして一枚の古い写真の発見が嬉しいように古い記憶の遡上も楽しいものです。この楽しさは裏返せば既に多くの記憶が失われたことによるからでしょう。記録も大事だけれど忘却もまた大事ということだと思います。インターネットを情報の面から言えばいくらでもサーバーに情報を置くことできますし、現実にいま世界中が電脳空間に情報を貯め込んでいます。そして世をあげて情報とは記録し保管し管理し、その消滅を防ぐものだとしています。しかしそのことは「時」というものがこれまで記憶を忘却の淵に沈めることによって保ってきた人の心の仕組みを変えることになります。はたしてそれは進歩なのかどうか。あの時の4才の私は結局饅頭が食べられたのか、実は一生解らないことが楽しいのですから。
 

 
00.10.17 記
        公的資金 VS 質屋

もう6年ほど前になるが、当時、銀行の借入枠をひろげるために利用していた大阪府の信用保証協会から調査の電話がかかってきた。「お店の状況について幾つか質問をしたいので少しお時間をいただけますか」と担当者は宇宙飛行士の毛利衛さんを想わせるしっかりした口調で話される。私がOKすると銀行を通じて提出してあった書類に基づいて「では次は、質問の仕方を変えましょう」と専門官なのだろう手際よく書類の数字を次々と違う方向から質問される。私の頭ではこの変化についていけないが、先方の意図が何であるかはおおよそ解っている。売上高から仕入高を引いて、棚卸しの計算をしたものが店の粗利益だが、この内の質の利息収入を知ろうとしているのである。「・・としますと、この内の何々は利息収入ということになりますね」。
「ご存知でしょうが、府の信用保証制度をご利用いただくには業種に制限がありまして、金融・興行・不動産業などの方はできないことになっていまして、ご利用いただいておりましても判明した時点で見直すことになっています。質屋さんの場合はやはり・・・」
「いや、質の貸付資金ではなくウインドウで質流れ品を販売する資金に保証協会さんに枠をとってもらっているのですが」
「それが、お仕事の一部が金融業になる場合はお断りすることになっております」
「では、質屋は兼業している部分で信用保証を受けられないんですか。それでは百姓が米屋やったら駄目なんですか。坊さんが政治家になったらいけないんですか。」 ??。私はいまさら何でと腹がたち支離滅裂になる。
しかし先方は静かに「いや、いいんです。お仕事は自由ですから。例えば工務店の方が建売を建てて販売するかたわら別に不動産業をやってられる場合があります。その場合、工務店としては問題ないのですが不動産業が引っかかってきて、保証協会としてはお断りするという規定になっています。融資した資金が事業のどの部分で利用されるか、お金にしるしは付けられませんので解りませんから。質屋さんだと解っていたら最初からお断りしたはずです」
「しかし最初は保証協会の人が店へ見に来られましたよ。その時だけ私は店先の「質」の看板を隠したわけではないですよ。だいたい「質」という看板の掛かっている店へ入ってきて、それで当店を何屋だと思われたのです。まさか、八百屋だと思いましたか。魚屋だとでも思いましたか」
「・・いや・・しりませんでした」。−−(これについて後に注意書きがあります。下記の*注1をご参照ください)

これは後で気が付いたことだが、
申し込む時に添付した税務申告書の写しは「橋本質店」の屋号になっていたはずだ。
だいたい申込者の屋号が「橋本質店」で質屋以外にあるだろうか。
「橋本質店」という八百屋 ?
「橋本質店」という散髪屋 ?
もし、「橋本質店」という八百屋があったら、その八百屋さんはどんな野菜を売るんだろう。
もし、「橋本質店」という散髪屋があったら、どんな散髪するんだろう。


当店が府の信用保証制度を利用したきっかけはこうである。平成元年ごろ大手都市銀行から少額の融資を受けていた。当時入質が増え資金が要るのでさらに融資の増額を申し込むと、この地での商売の日がまだ浅かったからか、「銀行直(プロパー)ではできないが、このごろ府の保証協会さんを通しての融資が多くなっているので、ウインドウ販売をされている、その中古品の販売資金に協会さんの保証枠が受けられるかどうか走ってみます」と銀行の担当者が言われた。申込書を書くと後日、保証協会から調査に来られ、ウインドウの商品を見、最近15ヶ月間だったか18ヶ月間だったかの仕入れと売上額をチェックして帰られた。そして審査はパスし保証協会の融資枠が得られた。

ちょうどそのころバブルの頂点で土地も株も値上がりし百貨店では高価な宝飾品がとぶように売れていた。その直後、バブルが頂点を越えたあたりからその品物が質に入るようになり急に店としての資金需要が増し、この保証協会の枠を使い切った。それで保証枠の増額を申し込むと、今度は増額の申請書類だけで大幅に承認された。

府の中小企業信用保証協会の利用の仕方は、担保に入れる不動産に保証額の2割増の根抵当権をつけ保証額の0.7%の2年間の保証料を前払いして銀行の融資枠を得るものである。(他にも会社の規模や希望によって別の仕様もあるかも知れないが当店はこうだった)。銀行は協会の保証のある貸付だから金利を抑えてくれるし、銀行窓口で簡単に借入、返済ができるので、保証料の2年間の先払いは少し惜しいが便利だった。しかし時代はその後、バブルがはじけ、土地・株が値下がりし平成不況に入り、この保証制度を利用している商店や企業にも倒産する処が多く出ていた。そしてその銀行の不良債権が大阪府の保証協会へ請求され、大きな額(代位弁済額)になっていると新聞が報じていた。

保証協会から電話がかかってきたのはそのころであった。私としては6年余りも滞りなく保証料も銀行金利も払っているのに今さら利用資格が無いとは何事かと前半はただ腹がたった。しかし後半は冷静になりしばらく話をして質屋の現状を説明した。質屋営業の実状が多分に商品リサイクルの役割をしていること、バブル時に購入された品物が換金の目的でひとまず質入れされること、そしてその多くが流質になり扱い高が増え資金が要る割には利息収入に結びつかないこと、そして流質品の多くは古物市場で売却すること、そのことは結果一度消費された商品を再び流通経済に乗せることになることなど。そして当店は質・買い取り・販売を一体にして店づくりをして、その回路へ入っていること。その運転資金なのに何故・・・。
「言われることはそれなりに解ります」。

結局、この電話のやり取りの最後は「すぐに信用枠をうち切るということはしません、そちらもお困りでしょうから。しかし次の更新時から保証枠を減額していって下さい」ということで終わった。そして言われるように減らしてきて今では保証協会とも縁が切れた。銀行の担当者が言う、「お宅の土地の評価は現在こんなんですよ」。協会さんの根抵当権設定額より随分下だった。

バブルの最盛期に公的保証制度の活用を、質屋も銀行も保証協会も、三者それぞれに解釈して保証枠を大幅に増やした。バブルがはじけ、不良債権の増加・担保不動産の下落・府の財政赤字・などにより保証協会が引き締めを始めた。引き締めるのに協会の担当者が理由を探せば当店の場合は利用資格を問題にできた。そういうことではないだろうか。

以前から「公的融資制度と質屋」について書きたいと思ってきた。それは公的な融資制度の利用を、質屋は金融業であるあるとして排除しているのは今の時代におかしいという意見が以前から業界にあり、それをもう一度考えてみたかったからである。しかしこの問題は大きすぎて私のてこに合わなかった。だからともかく体験談を書いてみようとした。しかし振り返って考えてみると、私の場合はあくまでバブル経済を境にしての官民のいわば狂想曲なのであって、本来考えたいと思う問題の本質にはあたらないかもしれないが。

−−(*注1 「・・いや・・しりませんでした」、はその後、途中で取り消しして訂正されました。文章では話しの流れとしてそれでは前後してややこしいので省きました。保証協会の書類では当店を古物の販売を主にする店として描かれていて、その書類を見て電話をされて、私が激したからつい走ってしまったのでしょう。
この時の電話の終わりの方の話しで、質屋さんでも利息が微々たるものであれば良いのですがと言われるので、その微々たるものとは具体的に幾らほどですかと問うと、例えば年20万円ほどと言われる。それでは食べていけないではないですかと言うと、だから駄目なんですと言われて、なるほど論は通っていると思ったものです。)
 

 
00.08.19 記
        それぞれの夏

夏の暑い昼下がり店は暇である。
お客さんが来ない、電話が鳴らない。
前の道の人通りも絶えている。
近くのお屋敷の蝉の声も一層静かさを誘うばかりである。
ただウインドウの日除けの長い帆布だけが風に揺れ、
ジリジリと照る強い日差しに変化をあたえている。
白く光るアスファルトの処々には先ほどの打ち水がまだ乾ききらない幾つかの黒い島になって残り、
どこからか蝶が来てこの島に羽を休めわずかの湿りを愉しんでいる。
夏の昼下がり、シーンとした店内から見る戸外の明るい景色は、
店が暇であればあるほど美しい。

このお盆の静かさの中で本を読もうと、
句集を見ていると質屋は冬の句に詠まれているものが多いのに気が付いた。
昔は年越しのお金の工面とか、
あるいは夏と違い冬は着物の枚数が必要だからとか、暖房がいるとか、
庶民の暮らしが冬は比較的お金が必要で質屋を利用することが多く、
それで冬の句に詠まれることが多かったのだろうか。

しかし私には「質屋」は夏のイメージが強い。
暑い最中のこの暇な静かさの中に質屋の真骨頂があるように思われる。
子供の時の記憶でも決して忙しい商売ではなかった。
もともと待ちの商いであった。
経済社会がすくい取れない金融の一部を質屋は動産担保という保管コストの掛かる、
ロスの多い方法で引き受けてきた。
だからその質屋のお客様が多くなることは反面、経済構造の欠陥と言えなくもない。
そうすると商売が忙しいことは本来、良いことなのかどうなのか。
お盆の昼下がりの余りの静かさが、
この根元的なジレンマを青空に湧く白雲のように立ちのぼらせる。

それに、そもそも商売人に成りきる阿呆と、成りきれん阿呆と、果たしてどちらが上等かと。
暇なものだからこんなことをゆっくり考えていると、
そこへ突然お客様が入って来られる。
しかし急にニコッとして「いらっしゃいませ!」なんて言えない。
今まで頭に手を当てて難しい顔をしていたのに、
役者ではないから急に表情は変えられない。
そのままの顔でお客様と顔を合わすことになる。
それで相手はギクッとされる。
もしかしたら寄り目になっていたのかも知れない。
この第一印象の悪さがマイナスになり、
結局お客様は入質しないで帰ってしまわれる。
あぁ・・、それぞれの夏。
 

 
00.06.20 記
        しまった!

もう数年前のことになる。憔悴した様子から昨夜は寝ていないと思われる50才過ぎの男の人が来店された。
「家内が出ていってから息子が遊びだし、私の留守に帰って品物を持ち出してこちらへ質入れしている。品物は息子の物だしそれはいいのだが、ただ何とか息子と話がしたい。今ならまだ戻れる。今度来たら待たせておいて連絡してもらえないだろうか」。昼間はここにいますからと示されたのは大学の教室だった。

息子さんは、以前から取引のあるお客さんと一緒に3回ほど店に来られ、お客さんの方はよく喋る人だがこの青年は物静かで賢そうな眼をしていたのを憶えている。母親が恋しいとか、寂しいとか、それで今は少し横道へそれているかもしれないが、お父さんが心配されるようにカモにされて悪いことをする青年には思えない。また前からのお客さんも遊び馴れてはいるが連れをカモにしょうというタイプでもない。二十歳過ぎの若者に一時そうしたことがあっても仕方ないし、息子が「堕ちていく」と思うあまり親父が鬱状態になることはない。学識のある人が親バカなと思い、「お父さん、ゆっくり風呂にでも入って、ビール飲んで、寝はったらどうですか」 と言って頼みを断った。そうしたら入って来たときよりもっと思い詰めた様子で店を出ていかれた。

態度が冷たすぎると後で家内が私を怒る、「お父さん、苦しいのやろ」。確かに対応が良くなかった。あのお父さんは学問もあり、おそらく頭もすごく良く、しかしどうしょうもなく苦しいのだろう。質屋は商売に熱中すると単純に物だけを見たくなる。品物の背後の事情は聞きたくないし知りたくない。仕事のシステム化を難しくする雑事には煩わされたくない。しかし例えば、外科医が患者とは切り取られ縫い合わされるべき肉片に過ぎないと考えることが医の倫理を失うように、質物とは事情を伴わない単に値踏みされる物であると考えることは質屋の内の何かを失うことにならないだろうか。

もう随分昔のことになるが先輩の質屋から、「おふくろは店先で所帯の苦労いうて泣くお客さんと一緒に泣きよるけど利息はきっちり貰いよる」という話を聞いたことがある。このお母さんは計算の上でなく実際に愚痴を聴いてあげて結果お客さんを助けておられたのではないだろうか。つらいつらいと一緒に泣いて、しかし利息を貰うことは別という商いはとても私にはできないが、質屋はこれまで金融や換金だけでなく物を介して人が寄りかかれる処であったのかもしれない。あのお父さんの頼み(来店した息子さんを待たせておいてお父さんに電話に出てもらうこと)が実際に可能かどうかは解らないが、私がそれを承知したら僅かにまだ息子と繋がっているという安らぎだけはお父さんは得られただろう。そしたら風呂へ入って、ビール飲んで、その夜は実際に寝られたかもしれない。しまった。
 

 
00.06.11 記
        まいった!

「おかあさん、ここなにやさん。おじちゃんなにしてるの」
「おじちゃん、なにしてるの?」
お昼ごろ乳母車を押して来店された若いお母さんから時計や指輪を預かって、
ルーペで見ているとカウンター越しに聞くのは、いつもついてくる3才ほどの女の児である。
「な、おじちゃんなにしてるの?」
少し話せるようになって喋るのが楽しくてしょうがない、「なにしてるの」と何度も聞く。
しっかりやさんの女児の相手は私も楽しいが、質屋としてここでどう答えたものか少し考える。
「おじさんは時計や指輪のお医者さん。病気をしてないか診ているの。
時計や指輪が元気になるまで入院してもらうこともあるよ」とでも普通は言うのだろうけれど、
しかしこの物言いは嘘で誤魔化しがあって、何か質屋自身をおとしめるようで以前から好かん。
といって、「君の好きなミキハウスの赤いズボンや、乳母車に乗っている弟さんのミルクを買うのに、
お母さんの時計や指輪が幾らのお金になるのか見ているのですよ」というわけにもいかん。

もう四半世紀も昔の前の店でのことである。
ちょうど今頃の季節の天気のいい日に、
前の旧街道を隣町の幼稚園の遠足が通るのが店の横の格子から見えた。
同じスモックを着た園児が男の子と女の子で手をつないで幾組も幾組も通る。
母親と店番していると園児が店の前で引率の保母さんに「ここはなに屋さん」と訊いているのが聞こえる。
これまで「ここはお風呂やさん」「ここは八百屋さん」と言いながら歩いてきたのだろう。
私の家の軒先の「質」の看板を見て「なに屋さん」と聞くのだが、
答える保母さんにためらいのあるのが分かる。それでも園児がしきりに「なに屋さん」と聞く。
どう答えるか注意して待っていると保母さんは、「な な 屋 さん」と答えた。
一瞬母親と顔をあわせて苦笑いしたことを憶えている。

それで話はもとへ戻るけれど、子供に説明できなことはある。
「なにしてるの?、なにしてるの?」と聞く女児に、
この場合ともかく、「お し ご と」、と答えてやる。
そしたら今度は「お し ご と、ってなに?」とくる。
ここでたいがいお母さんに怒られよる。
「座っときなさい!」
それでしばらくはおとなしくしているのだが、
そのうち乳母車の弟に姉ちゃんぶってちょっかいしはじめる。
またこの弟がイヤイヤして姉ちゃんを足で押してる。
私が「どうもおおきに」と言うと帰るのが解るのかもう扉を開けに行ってバイバイする。
そしたら弟も「僕もバイバイせんならん!」と急いで伸び上がってバイバイしてくれる。
餅のようなほっぺたをした、
およそ人に気を使うような顔をしていない男児が乳母車から振り返ってバイバイしてくれることの嬉しいこと。
まいった!
 

 
00.05.16 記
        風に誘われて

日除けを下ろそうと見上げた空の何と美しいことか。
ああ、こんな日は店を休んでどこかへ行きたいなあ。

「 勝手ながら暫く休業致します。片雲の風に誘われて漂泊の心がおこりましたので。
  休業中は利息減免、流質延期、その他お客様のお望み通り。 店主 」・・・と書けたらなあ。

これから野に山に緑の美しい季節になる。
一番いい季節に一日中店で仕事をしているなんてもったいない。
一週間ほど休んでゆっくり旅行したいなあ。
が、そんなことは無理である。
他店に例がない。笑い者になる。それに第一家内がこわい。
お客様がいつ、どのような難しい品物を持って来られる解らない。
アルバイトに任せておける仕事ではない。
やっぱり店主が一日中店番していなければならない。
天気のいい日、そんな質屋の仕事の合間にも、ふと五月の風が吹く。

以前、京都の組合業報誌の取材で伺った質店の中に、
一ヶ月のうち「7.17.27」の3日以外は絶対に休まないというお店があった。
ご主人は65才で奥様と二人で商売をしておられる。
息子さんは大手企業にお勤めで後継者はない。
店はご自分の代で終わるおつもりである。
「たまには本日休業の張り紙を出してご夫婦で旅行でもされたらどうですか」と尋ねると、
「いや毎日商売している方がいい」と言われる。
経済的には既に何ご不自由ない。
ならもう少しゆっくりされたらいいようなものだけど毎日商売に励んでおられる。
この質店を組合の業界誌で紹介するのに、
ご主人が毎日仕事に励んでおられる意味をどう書けばいいのか考えたことがある。
文章にすると、
「仕事が好きで毎日商売していると三度の飯が旨いから」では弱い。
だからといって、
「質屋を通して社会のお役に立つため」
「質屋業への熱き想い」
「男の生きざまよ」
「仏に生かされているのだからお迎えが来るまでは」
「生きるとは日々自分だけの詩を書くことです」
では真実を射抜いてない。では何だろう。プライドだろうか。
自分が今までしてきたことを無駄にしたくないからだろうか。
店を休んでお客様に不便を掛けたくないという長年の信念からだろうか。

これに対して若者の場合は取材して書きやすい。
君が頑張って商売しているのは、
「お客様を増やしたいから」「店を大きくしたいから」
「若い内に多くの勉強をしておきたいから」「親を楽させたいから」
そのように若者自身の希望が答えとして返ってくるからである。
しかし先ほどのご主人が毎日商売に励んでおられる意味はむつかしい。
以前何かの本で、「働いていれば、意味の方は神様が考えてくださる」と読んだことがあるが、
ご主人の場合は神を信じるとか仏に帰依するとかいったことではないだろう。
おそらく「意味」を問うことに意味があるのだろうけど、
どちらにしてもこの問題は私には難しい。
そして大先輩も、ふと風に誘われる年頃も、未来に希望を持った青年も、
質屋という職業の内で同居している。
 

 
00.04.15 記
        職名改善委員会

以前、NHK テレビが農村の過疎問題を特集していた。取材先の東北の村は畜産農家30数軒の内、30才以上の独身男性が20人もいるという。嫁が来ない、このままでは農業が続けられない深刻な状態にある。厩舎で取材を受けた30才代の青年が、「ここで牛の乳を搾って一生終わるのかと思うと気が狂いそうになる」と言う。その横顔をテレビカメラがアップにしていく。次の場面では夜、青年たちが村長を囲み「嫁取りキャンペーン」の実施方法を話し合っている。結局東京へ出て役所を回り街頭で訴えることになる。村長と助役と数人の青年が村の名前を書いた幟を立て OL に「私の村に一度来て」と村の案内のパンフレットを手渡す場面で終わりだった。そういう内容の番組を見て可哀想やなあと思ったが、これで東京の OL が嫁に来るとは思えなかった。そして私も10年前に京都で「質屋の日」の宣伝ティシュを配っていたことがあるのを思い出した。

「0月0日は00の日」とつけるのが流行った時代がある。質屋は平成元年から「7月8日は質屋の日」と決めて全国的に取り組むことになる。やり方は組合によって様々で、例えば横浜の組合は質店を回るスタンプラリーをして完走者に抽選で一等ハワイ旅行を贈り、高知の組合は市電を借りきって無料の「質屋号」走らすなどした。京都の組合は「質屋の日」の宣伝ティシュを繁華街で配ることになり、それで私は10年前、鴨川にかかる四条大橋の上で「京都質屋協同組合」のポケットティシュを配っていたのだが、その時これが質屋の宣伝になってお客様が増えるとは思えなかった。

むかし質屋のイメージはよくなかった。質屋とはお金に困った末に隠れて行くところ。暗い、古い、貧乏たらしい。それにちょっと恥ずかしい。そういうイメージが質屋にはあった。だから質屋の息子には自然と複雑な気持ちが生まれた。質屋の軒数がこれまで減少してきたのは、利用者が減ったからとか、商売が儲からなくなったからばかりではなく、有意な若者が一生の仕事にできるようなステータスが質屋業にもてなかったからでもある。小さな商売人の家は過疎の農家同様嫁さんがきにくい。若い娘はサラリーマンが第一希望なのだから相当覚悟しなくてはならない。息子が店を継がない。親が歳をとって働けなくなると廃業して、それがまた一層斜陽のイメージをふくらます。質屋の娘が結婚するのに百姓はいやや、商売人はあかん、質屋なんてとんでもないと言ってサラリーマンに嫁いでいった。しかし実家が質屋だとはしきりに言った。どうも質屋とは行くところでなく出たところであるらしかった。

テレビの時代劇で悪代官と結託する商人で多いのが回船問屋と、以前は質屋だった。「何々屋、お主も悪じゃのう・・・。お代官さま、これは商いでございますよ!」というあれ。小説では「罪と罰」のラスコーリニコフに殺されるのが質屋。脚本家は時代劇が書きやすいので安易に質屋を悪者にし、文豪は魂を揺さぶるのにつましく生きる質屋の老婆を殺させる。イメージが物語に利用され物語がそのイメージをまた悪くする。私は若いときにこれからは「質屋」以外の何か新しい職名をさがさなくてはと考えて組合の業報誌に書いたことがある。当時全国的にもそういう考えがあったと思う。昭和57年ごろ東京で組合広報部の全国会議があり、トップの会長さんが言われるには、「先日、電通に質屋の名前について調査を依頼した。回答は質屋さんは”質屋”以外にありませんということであった。電通の部長が”質屋”っていい名前じゃないですかという。”質屋”、この名前は我々の財産である」。

この会議から7年ほど経って、私が京都で「7月8日は質屋の日」の宣伝テッシュを配っていたころ、隣の大阪の組合の中に質屋の宣伝をスマートにやってのけたグループがあった。店が以前京都にあったのでそのころは京都の組合へ行っていた。大阪の組合は規模が大きく知り合いも少なかったのでそうではないかと思うだけなのだが、この大阪にいたグループはマーケティングの能力を持っていたのではないかと思う。作戦をブランド品に関心のある女性にしぼり、魅力的だが反面偽物が多いというブランド品の怖さを質屋の信用と目利きを使い解消することで上手に質屋にリンクさせたのではないか。その結果これまで質屋にまとわりついていた「暗さ、古さ、貧しさ」といった影を、ブランド品を求めに来る若い女性がもつ「明るさ、自由さ、可愛さ」といった快い気分がどんどん打ち消していき、あとは静かにつけた火が、野火が枯れ野を走るように全国に広まり、女性がブランド品を求める回路が「質屋」という職名の名詞の系を自動的に改善していった。

しかし質屋もここまで来るのに長かった。家の浮き沈み、企業の盛衰、職業の人気不人気。配偶者の容姿は多くその歴史を語るだろう。そして確かにこのごろ質屋の若い嫁さんはきれいな人が多くなった。過疎の村の青年達よ、今は街頭で村のパンフレットを配っていても難しいですよ。しかしテレビで見るあなたたちの顔は、都会の若者の顔よりずっといいですから、それに都会がそれほど住み良い処ではありませんから、きっと農村が見直されて人気が出ていい嫁さんが来るようになりますよ。「この村には自然があります。労働の喜びがあります」、あなたのそうした訴えが共感を持たれる時代がやって来て、経済基盤が確立すれば、その時は飛べますよ。質屋が枯れ野に火をつけて飛んだように。
 

 
99.10.12 記
        質屋の組合と質屋像

店は昔、京都と大阪の境に近い旧街道沿いにありました。京都を流れてきた木津川と宇治川と桂川が、石清水八幡宮の峰と、天王山の山塊で、両方から漏斗の先のように狭められ、合流して淀川になり大阪へ流れ下るところです。自然の多いこの八幡町(現在は八幡市)、それに田辺町(現在は京田辺市)、井手町、宇治田原町の京都府南部の4町で以前は綴喜郡でした。この郡に一つの警察署がありその行政の単位で昭和30年頃まで地元に一つの質屋の組合がありました。子供のころ聞いただけですから正確ではありませんが、この組合は組合というほど確かなものでなく行政からの回覧を廻すていどの集まりだったと思います。自転車の質預かりは防犯登録証のあるものに限る(但し、自転車屋さんの販売証明があれば可)とか、未成年者から質預かりは出来ないが、例外として地方出身の若者で雇用主の一筆があればかまわないとか、多くは行政の指導にそった、営業上の申し合わせをしていたのだと思います。当時すでに都市部には協同組合法に基づく質屋協同組合がありましたが、郡部は広い土地に店が数軒あるだけですから、質屋同士の繋がりは少なく法的な組合はありませんでした。その後廃業する店が増え、結局は当店一軒になり綴喜郡の質屋組合は自然消滅しました。

質屋は公安委員会から営業許可を得、物品を質に取り、自己の資金を貸し付けし、流質品は古物市場で売却して貸し金の回収に当てれば、それで商売ができますから、仕組みの上では特に組合を必要としません。私の店もその後、昭和40年過ぎまでどこの組合にも入らず、質流れ品は京都や大阪の古物市場で売却して、それで商売に支障ありませんでした。ところが昭和43年頃になると電話を担保にお金を貸して欲しいというお客様が増えてきました。当時は一般家庭に本格的に電話がつきはじめた頃で、電話を使いながら担保に入れ、簡単に5〜10万円のお金が借りられる電話金融は、手軽な庶民金融として多くの人に利用されつつありました。また背後の丘陵地が大阪・京都のベットタウンとして大規模に開発され、人口が増える時でもありました。お客様の中から電話を担保にお金を貸してもらえないんだったら、品物を預けるのも京都市内や大阪の質屋に行きますからと言う人が出てきました。それで電話金融をするには協同組合に入らなくてはできませんので、京都市を中心に組織されている質屋協同組合に入りました。

この電話金融は「電話加入権質臨時特例法」に基づくもので、電話局でお客様の電話に質権を登録できる資格が、銀行、信用金庫、農協・・など協同組合以上、と法律で決まっていて個人ではできません。電話の質権は電話一本に二重に設定できず、不動産のように二次抵当、三次抵当はありません。ですからお客様は複数の業者から重複して借金をすることはなく、質屋の利用と同じで自然と借金に歯止めが掛かり、その意味で質屋の商いに向いていました。この電話の質権の登録の仕方は三者契約でして、質屋がお客様に貸すお金を組合から借りる形にして、その保証にお客様が自分の電話に質権を付けて債権者である組合に担保として入れる、という方法をとります。質権を登録できる資格者が協同組合ですのでこの方法をとらないと仕方ないらしいです。そして質屋が手続き上組合から借りた金額(質権設定額)に対する一定の利息と事務手数料を組合に納め、それが組合本部の収入になるわけです。ところが最近この電話金融が電話加入権の相場の下落により壊滅的な状態になり、この収入に多くを依存してきた組合の財政がどこも厳しくなっています。

多くの都市に質屋組合があり、それぞれの組合には独自の歴史があります。私の知っている京都の組合を例にとりますと、現在質屋の軒数は70軒ほどで立派に本部事務所を構えています。しかし以前、京都市内に質屋が400軒もあった昭和30年頃には、組合事務所はその時代の理事長さんのお宅にあって簡単なものだったと聞いています。全国的に質屋の軒数は昭和33年ごろをピークに減ってきましたが、逆に組合の本部事務所は電話金融の事務処理の必要から拡張されてきました。組合の財政支出の多くはこの事務所の維持費です。電話金融の衰退にともない、今後事務所を縮小するのか、新たな財源を求めて事業を立ち上げていくのか、組合によっては難しい局面にあります。

(注) 質屋協同組合は「中小企業等協同組合法」に基づき各都道府県で認可された団体です。他に、団体の性格、目的、体制などにより、法律も監督官庁も異なる各種の協同組合があります。しかしここでは「協同組合」で括って進めます。また消費者を対象にする生活協同組合のことは別とします。

協同組合には多くの業種がありますが、大きく二つのタイプに分けられると思います。一つは生産に係わる事業者が組織する協同組合です。例えば農協とか漁協とか、その中でも特に生産品がブランド品である組合、例えば西陣帯とか大島紬とかの協同組合、三輪素麺もそうした協同組合の商標でしょうか、他にもたくさんそういう組合があると思います。これらの組合では生産品の品質を保証しブランドを高めることで、市場性を持たせ商品価値を上げ、それで労働の生産性を高め、傘下の組合員の生活の安定を目指します。こうした組合と組合員との結びつきは、ブランドイメージが落ちれば死活問題ですから当然強いでしょう。また農協や漁協も肥料や網などの斡旋とか、技術指導とか漁業権の問題とかを通じて、組合と組合員との繋がりは深いでしょう。一方、例えば町の散髪屋さんの協同組合のように、よくは知りませんが保健所からの回覧を廻すとか、定休日の申し合わせをするとか、整髪料の一括購入をして小分けして安く組合員に斡旋するとかで、協同組合としては比較的繋がりは薄いのではないでしょうか。

質屋の組合は本来この散髪屋さんのものに近い職域としての協同組合ではないかと思います。それが近年は電話金融をするために法律上組合を経なければならないので比較的繋がりの強い組合になったのだと思います。電話金融がなくなりつつある現在、本来の質屋協同組合の体制に戻るのか、古物の生産事業者の協同組合へと移行して行くのか、それぞれの組合の事情もあり難しいところです。それでこれから先、組合が質流品の流通に取り組む場合について考えます。

現在質屋は全国では5000軒近くあります。例えば京都で70軒、大阪で500軒。そして各々の店は質流品の生産拠点でもあるわけですから、この質屋組合は同時に強力な中古品の生産ネットワークになります。この組織をつかんだ者が古物業界の覇者になるのは間違いないでしょう。そこで組合がこのネットワークの内に、質流れ品を有利に扱える立場を用意し、その権利を特定の業者に売りながら手数料収入を得るという方法があります。質流品をガソリンにして、それを古物屋さんというターボエンジンで燃やして走ると、質屋組合という車はよく走ります。ただこの方法の欠点は、組合が今まで生産に係わる組織でなかっただけに、こうした仕組みに十分な知識がなく、組合の運営が質流れ品の争奪のテーブルの上で廻ることになりかねないことです。組合が質流れ品を有利に扱える立場をどの古物屋さんに与えるかをめぐって、組合員である質屋がいわば利権の渦に巻き込まれることが起こらないとも限りません。

また組合を生産システムとしてつかんだ古物屋さんは、当然商売ですからより多くの質流品を求めてくるでしょう。その時、一質店主でもある組合の担当役員はどこまで対応できるでしょう。そこから「この組合財政の緊迫の折、組合の理事たる者が組合を通さずに自店の流品を売るとはあるまじき行為だ」とする意見が出て来ないとは限りません。そうしますと組合の財政を介して一部の古物屋さんが錦の御旗を持ち、組合を通して売らない質屋は賊軍になります。このことは質屋にとって一番大事な、流質品の処分権はあくまで当該質屋にあるとする大原則に圧が掛かることになります。

今から30年ほど前、電話金融が質屋業界で伸び盛りの時代に、組合やその全国組織の中枢へ上って苦労をされた人はきっと電話金融の得意な質屋だっただろうと思います。その時代の一般的な質屋の法律知識を越えた、電話金融に必要な書式能力の高い組合員だっただろうと思います。そうした人の法律知識や緻密な能力を、多くの質屋は同じ組合員というだけで無償で受けたわけです。次の時代、質屋が物品売買へと傾斜して行くとき、この組合組織の中枢へ上ってくる人はきっと古物屋さん的な質屋、あるいは質屋の許可を持っている古物屋さんでしょう。今度はその人の商品知識や販売力の影響を受けることになるのですが、前と決定的に違うところは、今度はその人達と組合員との間に取引が入るということです。これはこれから業界が背負っていかなくてはならない難しい問題です。

この問題について、「これからは共生の経済です」、とする考えはできます。しかしこの共生の仕方は難しいです。以前、質屋の業界誌に「アメリカ質屋探訪記」が載っていました。アメリカの州だったか市だったかで、質屋の組合長を訪ねたら「その人物は古物の組合長も兼ねていた」と書いてありました。社会の成熟にともない消費者金融が、動産担保から信用保証へと移り、質屋の仕事が文字どおり物品売買と一体になった先の形です。そしてアメリカの質屋はその方向へ行って、少し社会に背を向けた特別な世界を作り、その反動として州によっては法律にがんじがらめにされ衰退していった歴史があります。日本ではそうなる可能性は少ないとしても、質屋組合と古物屋さんが下手に手数料収入と利権で繋がると、何かおたがい大事なものをなくしてしまうのでは、どちらもその内堕落するのではないかと、そんな懸念を持ちます。これまで日本の質屋は、古物屋さんと協力しながらも基本的に切磋琢磨してきました。おたがい下手なことはできないという張り合いが、共に業界の健全性を保ってきました。この良い関係をこれからも持ち続けるには、組合内に特定の古物屋さんが質流品を有利に扱える立場を作らないことだと思います。

これまでの組合は組合員である質屋にとって居心地の良いところでした。個々の質店の店主としての矜持と、営業の自由を最大限尊重し、強制や罰則とは無縁の世界でした。昔の農協のように生産者米価を国に押しつけるような団体でなく、特定の政治家を支援して既得権を守る集団でもありませんでした。いわば職業を同じくする者が日々の仕事に励む、その気持の核としての集まりでした。人の家が正月に新春を祝い、節分に豆を撒き、お盆に祖先を供養し、節を区切り暮らしていくように、組合も5月に総会を開き、6月に全国的な集まりを持ち、7月に「質屋の日」の催しをし、定期的に業報誌を発行して、ちょうど川が流れるようにして、澱みのない健全な業界を維持してきました。組合本体は少しゆっくりしたところがありますが、だからこそまた皆さんが「ご苦労さんです」「お世話様です」と言いながら組合行事に参加できたわけです。傘に例えたら心棒が組合で骨によって個々の質屋が繋がっていて、行事の時にはパッと開くということです。

いま質屋の仕事が徐々に金融から売買へと移行しています。そして質店の業績はいかに多くの商品情報を獲得できるかに係わってきています。その結果これまで以上に組合は情報発信基地として重要になってきました。その組合の変革を模索する内で、これまで組合がとってきた護送船団方式を見直す考え方があります。しかし質屋の組合はこれまでのように同業者の利益を守る緩やかな集まりでいいと思います。仮に個々の店の営業実績が拡がり「質屋」で括る範囲が広くなっても、組合はそれを大きく包んで遅れる人を切り捨てないで、これまでのように護送船団方式でいくべきです。仲間が切り捨てられないのを見てきたからこそ組合に求心力がはたらきました。そして傘に例えれば、骨がバラバラにならないからこそ質屋は雨風をしのげてきました。戦略論としては前線が細く長く伸びれば戦力は弱まります。しかし質屋が次の時代にも支持されるためには、これまで質屋を支えてきたその町固有の風土を無視することはできません。「質屋のある風景、我が日本!」というわけではありませんが、それぞれの町にその町の人達が必要としたいろいろな質屋があって、それで全体として質屋が強くなれるのだと思います。

これからの質屋組合を考えることは、将来の質屋像を考えることへと繋がります。21世紀の質屋像を私ははっきりとは思い描けませんが、しかしそれは才覚や目先の鋭さを必要とするものではないと思います。これまでの質屋の歴史とは、つまり才覚者が出ていった後に残った者がつくった歴史ではなかったでしょうか。江戸時代に才覚のある者は大名貸しをやり両替商になり、近代に入り銀行になり財閥へなっていきました。米屋になり、造り酒屋になり、大きな地主になっていった者もあります。いつの時代も残った者が質屋だと言えます。現実に戦後しばらく質屋をやっていた遣り手の人達が、その後社会が落ち着くにつれ目ざとくサラ金へ転向して大きくなり、一方、取り立てといったことが性格に合わない者が、動産を扱う者として残ったのが戦後の質屋の歴史でもあります。

以前先輩から、質屋と金貸しの違いについて聞いたことがあります。
「夜飲みに行って帰り道で小便がしたくなる。しかし家が建て込んでいてどこにも空き地がない。ここで漏らしたらズボンが汚れる。一張羅の背広がだいなしや。だけどもう我慢できひん。しかも悪いことにポリボックスの前でお巡りさんが立ったはる。ここで、漏らすのが質屋で、立ちションするのが金貸しや。立ちションしても軽犯罪法違反やから、せいぜい始末書ですむ。漏らしたら何万円もする背広がパーや。だけど質屋は漏らすねん」

こうした要領のわるさ、律儀さ、それに下手な正義感。この質屋像が愛嬌になってこれまで世の中に受け入れられてきのではないでしょうか。このように質屋が少しボーッとしているのと、その組合が少しゆっくりしていることとは、どちらが原因でどちらが結果かよく知りませんが確かに関係あるように思います。21世紀にもこうした質屋像が受け入れられるかどうか分かりませんが、しかし私はこの質屋気質に頼るしかないようにも思います。もし、目先の鋭い才覚者だけが残ったら、次の時代、社会は同じように質屋を支持するでしょうか。

商売人にとって世の中が激しく動く時代ほど商機があると言えますが、またそれだけ職域をまとめる協同組合には難しい時代でもあります。これからの社会では資源や環境問題がより重要になると思います。そのキーワードのリサイクルの分野で質屋業界の才覚者が新たな産業の旗手として巣立つかもしれません。しかし過去にそうであったように飛び立った者は既に質屋ではありません。百貨店や銀行やサラ金が今ではそうでないようにです。その意味で質屋とは偉大な宗家かもしれません。そして私は残り組になるとおもいます。
 

 
99.06.28 記
        待って・・

店に一番多くかかってくる電話は「待って」です。
「流さんといて、近いうちにいくさかい」という電話です。
来店を延ばされる理由は、忙しくて、忘れてて、出張で、祝いごとがあって、
入金が遅れて、支払いがあって、など様々です。
ほかに、サイフ落として、風呂で滑って、階段から落ちて、というようなのもあります。
中でも特に多いのは風邪ひいてです。
電話をとるといきなり「ゴホン」で、そのあと咳が続き、
最後にかすれた声で「風邪ひいて」と言われます。
しかし受話器の後ろのざわつきから、
とても家で静かに養生しているように思えないことがあります。
それでも質屋としては、お大事に、と言わないと仕方ありませんから、
風邪の守備範囲には医学から社会学まで幅広いものがあると思います。
 
よく病は気からと言いますが、この気と、風邪の風とはもともと同根ではないでしょうか。
気分、気持、風韻、風趣、すべて何であるとは捉えにくいものです。
薫風と言えば気分の良いことを言いますし、
風邪と言えば昔は体に悪さをする邪悪なものを言いました。
科学が発達し銀河系の遙かかなたの惑星が何百年後に地球に何万キロに接近するのを、
気の遠くなるような膨大な計算から導き出せる現代にあっても、
なお身体には解き明かせない謎があります。
解明できないもの、また時には解明しない方が良いことを、
人は昔から気や風と言って折り合いをつけてきたのではないでしょうか。

だから質屋では、「待って」が何でも通用すると言うのではありませんが、
そこは質屋、気や風をあえて解明しないでお客様のご希望にそうようにします。
折り合いについては「質屋700年の歴史」があります。
「利息を入れたいけど風邪ひいて」と電話があれば、
たとえ後ろでパチンコの音がしていても「お大事に」と言います。
前は「サイフ落として」、今度は「スリにおうて」と言われようと、
きっとそのお客様の周りでは、
そうしたことが他の人より多く起こるのだ、と思うことにしています。
質屋は担保品が倉にあるのであせりません。
ですからサラキンのようにせっつきません。
期限のきたものを質屋はお客様が流されるものとして流質処分します。
結局流すか流さないかはお客様の気持次第ともいえます。
「待って」で質屋は流質を猶予しお客様には余裕が生まれます。
これが普通の金融機関ですと猶予は債務の追加になり結局お客様の余裕にはなりません。
質屋のいいところは最終的に流すことによってお客様の債務は一切なくなるところです。
ですから待った末に流されたら質屋は待ち損です。
「待って、待って、と言うので待ってたのに結局流すとはひどいやないか」とは、
質屋も思いますが、口には出しません。

昔の質屋の店先というと、お客様は高く貸してと言い、
質屋はせいぜいこれがいっぱいですと答える、そういうイメージがあります。
人生の辛酸をなめてきたお客さんと、
経験をつんだ質屋の主人のやり取りは丁々発止、
−売り手は高く売りたい買い手は安く買いたいは人の本性にしてそもそも商売の根本なり−
そんな感じがします。
私の知っている時代でも、
カウンターの向こうから上手に質屋を口説くお客さんがいました。
「もう少し何とかならへん。たのむわ。いるねん」。
「な、必ず出すさかい」。
「じゃ、しょうがないですね」、などとやっていました。

しかし近頃はそうしたやり取りはなくなりました。
あっさりしていると言うか、シビアになったと言うか。
お客さんも生活に困って品物を持って来ているのではありませんから、
付けた値段が気に入らないと「あ、そう。やめときます」だけです。
質屋としては値付けが一発勝負で駆け引きといったのが入り込む余地がありません。
カウンターを挟んでお客さんが暮らし向きを持ち出して無理を言わないのですから、
質屋も、これは難しいんです、これは得意じゃないんですとは言い訳できません。
質屋として、最高の金額を一回言えるのみです。
こうなったことは質屋にとって厳しい面もありますが、
若い主婦が昔のように対面で買い物をするのを嫌う時代ですから、
質屋を知らない若い人にも利用してもらいやすくなり、
かえっていいことだと当店では思っています。

しかし最近、若い人が喋らないので困ることがあります。
黙ってカウンターの上に時計やバッグを、置くだけの人がいます。
幾らお入り用ですかと聴くと「幾ら?」、だけです。
幾ら幾らですと言うと「じゃ!」、だけです。
じゃ、それでいいのか、じゃ、やめておくのか、それも分かりません。
次に、質に預けられますか、それとも売られますかと聴くと、
自分はどうしたい、と考えがまとまらないのか反応がぼやけます。
そういうとき質屋もどう対応していいのか戸惑います。
サラキンの無人契約機の影響でもないでしょうが、
以前と比べて若いお客様に表情がなくなったと思います。

このように店先では事務的になり、無理を言うお客様は減りましたが、
相変わらず「待って」の電話は多くあります。
お客様の気持としては、手放したくない、今は使わないがやはり惜しい、
将来値が上がるかもしれない、近い内にお金が入るかもしれない、
それやこれやでもう少し考えてみたい・・・で、「待って」と。
この「待って」に、質屋が時代を超える強さがあるように私は思います。
お客様は、利入れしなければ3ヶ月後に流質するのを了解の上で預けられます。
その了解事項を3ヶ月後にいとも簡単に破って「待って」と、言う方も言う方なら、
それを簡単に「お待ちします」と、きく方もきく方だと言えます。
今の時代にそんなことが他にあるでしょうか。
でも人の思いを尊重して、できるだけ無理強いをしないで、人と人とが暮らしていける。
私はそれもいいと思うのです。

  お客様が詠める     天つ風 蔵の扉を吹き閉じよ 流れますのをしばし止めん

  質店主の返歌      時は今 風立ちぬいざ 流しなはれ 流しなはれ

  質屋組合長の詠める  待って待ってもほどほどに 質屋も生活が掛かってます

 

 
99.04.23 記
        昼飯がうまい

小さな店で夫婦共働きのようなものだから昼は簡単な食事が多い。
しかしこの昼めしが一番うまい。日によって
例えば、
  アジの干物、納豆、味噌汁。
  野菜炒め、ひじき、味噌汁。
  カレーライス、あさ漬け。
  特に忙しい時は玉子のみ。つまりかけご飯。
他にいつも、おじゃこ、ワサビ漬けなどがある。
食べ方もご飯に味噌汁をかけ、じゃこをのせ、ネコマンマ。
またかけご飯に、じゃこと青菜をのせ、パアッとかき回し、一気にかき込む。
こういうのを「食」の醍醐味と言うのかと気にいっていて、
この悦楽は天皇陛下も大会社の社長も味わえないものだと思っている。
昔はこういう食べ方をしてよく母に叱られたが、
今は誰はばかることない私が主人なのだから、この喜びだけは手放したくない。
昼めしぐらい自分の好きなように食べたい。

ところが最近この食事が店の品位を落とすと内部からクレームがついた。
私のご飯をかき込む音がお客様に聞こえてみっともないと言うのだ。
パートの人は昼食に帰るので、家内と交代で食べている。
昼前後はお客さんが多いので、昼食は事務室でとることになる。
間仕切りはあるが上部はいけいけだから、
事務室の音はお客さんのおられる土間にもよく聞こえる。
静かに食べればいいようなものだが、かけご飯の美味さはスピードが大事で、
それが喉ごしを決める。
それでつい「ガァァー」とか「ヴゥァー」になる。
確かにエルメスやヴィトンのブランドイメージと、汁かけご飯をかき込む音とは合わない。

昔からご飯を食べ始めるとお客さんが来られる。
うどんはのびる、ご飯はさめる、お茶かけはふやける。
質屋は昔から職住一体の商いをしてきた。
子供の頃、家族が夕餉の膳を囲んでいるところから、店の様子が見えた。
質屋は家内制手工業のようなものだからと、
当時はお客さんの意識も、時代の感覚もそうだった。
時代は進み、客層が変わり、扱う商品が変わり、取引額が変わっても、
質屋自身に染み込んだ意識はなかなか変わらない。
考えてみると、食事どきにお客さんが来られると店へ出て、
今まで箸を持っていた手にルーペを持ち、
1カラットのダイヤを鑑定して「五十万円です」と言っているのは、
確かにすごい世界だと言える。

豊かな時代は人の心は美やお洒落に向かう。
私とはこういう人間である。
こういう考え方をし、こういう生き方に価値を置き、現にこういうスタンスで生きている。
その自分を表現したい。
自分という人間をそのように見せたい、見てもらいたい。
それで、こういう服を着、こういうバッグを持ち、こういう車に乗る。
ファションとは、そういうことだと思う。
そうして人が消費を選択していくのが本来の姿だろう。
ところがこの十年近く質屋を活性化してきたブランドブームの中には、
以前の土地や株のバブルと同じで、虚というか実質にほど遠い部分がある。
だから商いが時として虚業のような気がしてくる。
古来より質屋は社会に根をおろした実業として栄えてきた。
その時代の庶民の生活に密着した仕事として役割をはたしてきた。
しかし現在のブランドブームには一部理解しがたいとこがあり、
商材として扱うのが嫌になってくるものがある。

この時代の中では質屋もまた選択される消費対象だろう。
そこで橋本質店とは、こういう質屋であります。
こういう理念を持ち、現にこういう商いをしています。
その当店を利用されることは、お客様の心と暮らしを豊にします。
そこに当店の実業としての意義を認めたいと思っています。
それで最後は少しこじつけのようになりますが、私の昼飯のかき込む音を、
「質屋も頑張っているんだなぁー」
と思ってくださるような、そんなお客さんに来ていただきたいわけです。
 

 
99.2.22 記
         目利き論 ・・風で分かる

昭和20年代、古物の競市は長丁場だった。夜遅くなると疲れて眼を閉じている買手も多い。そんな父の頬を風が撫でた。瞬間、「となりやで!」。絹のとなり、絹でなく人絹(化繊)だというのだ。皆はその着物を正絹と思って競っていた。広げたり畳んだりする、その風で父は絹か化繊か分かったと言うのだ。「橋本はんは眼をつぶったはても分からはる」凄い目利きだと。そして伝説になった。私の若い時にも凄い目利きがいた。この古物屋は、市場で買手が値を発する一瞬前に息を吸う、その「風」を読むと言われた。ここまでくると、武蔵と小次郎の立ち合いと言うか、剣豪が編笠のしたで「ム・・できる!!」みたいな話しである。

しかしこの話、私にはどうもにおう。どちらも「風」というところが引っかかる。風という言葉は風韻とか風趣とか、その道の達人が使うことが多いけれど、もとより空気の流れなのだから掴まえどころがなく、そうだと言えばそうだと思えるし、そうでないと言えばそうでないようにも思える。まことに微妙な境地である。確かに絹か化繊か擦れる音で識別することはできる。現に大島の着物を爪でこすれば絹特有の音がする。だから父が「音」で分かったと言うのなら分かる。しかしどう考えても、眠っていて「風」で分かったとは思えない。親父は本当は眠ったふりをして、ころ合いを見計らって一芝居うったのではないか。

「風を読む」という話も、この人が不世出の目利きであることは誰しも認めることだが、相手が言う前に何を言うか当ててしんぜようだから、まるで八卦見にあるような話だし、それに弟子が「親方は風を読まはるねん」と言うだけでご本人は笑っておられる。およそ名医というのも自分で名医だと言う人はいない。いれば、その医者は危なくてしょうがないだろう。目利きも同じで、まわりの者があの人は目利きだと言ってなれるものであって、自分で目利きだと言っても何の意味もない。そこで目利きになるためには舞台設定が必要で、それが一芝居であったり、取巻き弟子の多少のヨイショであったりするわけで、その後はまわりが担いでくれる御輿に乗っていることになるのではないか。

いやこの風を、空気の流れでなく一種の「気配」のことだと考えればまた違った解釈ができる。気配のことを劇画風に言えば、忍者サスケが「殺気!!」のことのようになってしまうけれど、しかし様子や、雰囲気、冴え、姿、顔、華、美、・・言葉では難しいが、そういったことを総合認識して私たちは値踏みをしている。そしてこの値踏みについて質屋は店先で素人のお客さん相手の商いだからゆっくりしたものだが、古物市場の修羅場で競っている人達は速くて狂いがないことが要求される。資料を参考にするとか、あれがなんぼやったさかい、これはと、ゆっくり考えている暇はない。次々競られる物を見た瞬間に買値を発しないと競り負けるわけで、しかも買値にブレは許されない。ではこの人達はどういう値踏みの仕方をするかと言いうと、物を見て幾らと考えるのではなくて、物を見たら幾らと「眼に映る」のである。物が真贋も含めて幾らの物、なんぼの物と、金額が眼にうつるのである。またそうなるように若いときから修業するのである。

宮本武蔵の「五輪書」に、剣は「見」ではなく「観」であるとあるが、それは剣の極意は相手の動きを見るのではなく観、つまり眼に映すことだということである。真剣の立ち合いで剣士の観がブレれば、それは自らの死につながるように、目利きがしのぎを削る古物の競り市で、買い手の勘がブレれば、それは己の飯の食い上げにつながる。そして歳とともに視力や反射神経は衰えていく。いや、ブレもせず、衰えもしなくとも、例えば、公儀御指南役・柳生但馬守は、そこいらの兵法者とは格が違うといった、「私は他の古物屋とは少し違うんだ」と言う歳相応の格が欲しくなってくる。またその格付けが競りにおいて有利にはたらくということがあるかもしれない。そこに「風・・」が生まれる下地があると考える考え方もできる。

売り手の質屋と買い手の古物屋が集う競り市は、参加する全員のためにできるだけ情実や利権を排除しょうとする。それはちょうど全ての人が幸せな暮らしができるように民主主義を守ろうと努力する心と同じである。ボスを作らない独裁者を許さない、結局それがみんなの利益になると経験で知っているからである。だから競り市に原則としてハンデはない。強い者が勝ち、力のなくなった者は去っていく。風というのも、つまりはその中で駆け出しのペイペイとはわけが違うんだという、「風で分かる」「風を読む」と言った異能が帯びるこの世界の別格の官位を、目利きを天職と心得る魂が暗に求めていくものではないか。
 

 
98.12.15 記
        ツールとしてのカメラ

先日、カメラ好きのお客さんから撮影旅行の楽しい話を聞きました。この方は定年退職した友達と写真の同好会を作っておられます。この間も大山から境港へ行かれたのですが、途中の弓ヶ浜での話で「5年前はいい景色があった。木造船が浜に引き上げられていて、舳先に大山のお札が張ってある。もうこの船、二度と海に浮かぶことはないな、そんな感じが出ていてよかったけど、今年行ったら全然そんな風景がない」、と言われます。それでも仲間との旅行は楽しいようです。

日経新聞に赤瀬川原平が仲間(ライカ同盟?)と撮影にいった様子を書いています。街角のふとした風景、地方のなつかしい景色、光の暖かさや風のにおいといったもの、仲間とのビールのうまさなど、人柄が出ていて面白い文章です。この人に「路上観察学入門」という著書があります。私は書評でしか知りませんが、東京に限らず都市の発展にともなって街が改修されていくと、全体が同時進行でないので、どうしてもつなぎ目の部分に古い家屋が残ります。その残った人の暮らしの歴史を感じさせる風景を丹念に拾い上げていくのだそうです。

NHK特集、「司馬遼太郎・・・街道をゆく」のタイトルは確か「風に聴く」でした。この、旅をして「風に聴く」といったことは万巻の書を読む人にしかできません。しかし誰でも旅先で「風の心地よさ」は感じられます。ただ画家なら絵筆を取るようないい景色のところでも、多くの人は風の心地よさを感じるだけで終わってしまいます。しかしその時、カメラを持っていると、その風景に意味が出てきます。風景の中から何かをくみ取って、自然とその意味をつかもうとします。つまり画家にとっての絵筆と同じで、このときカメラは見つめるツールになります。

誰しも司馬遼太郎のようにはいきませんが、赤瀬川原平の路上観察のようになら、けっこう楽しめるかもしれません。表現することは難しいですし、著すには言葉が要りますが、カメラを通しての観察は比較的し易いように思います。今のカメラブームは一過性のものかも知れませんが、カメラは「知」のよいツールだと思います。きっと、こうした考えは既に言い古されているでしょう。私は写真のことはよく知りませんし、カメラも商品としての知識しかありません。ただ先日お客さんの楽しい撮影話を聞いて、質物のカメラからこういう考え方もできるのだなあと思い書きました。もっとも質屋として確信をもって言えることは、カメラはお客さんにとって「お金」のツール、質草になると言うことぐらいですが。
 

 
98.10.21 記
        倉の中では

質屋は鑑定のプロであると同時に質物の保管と管理のプロでもあります。お預かりした品物を大切に保管することはもちろん、お客様が取りに来られたら素早く確実にお返し出来るように、質物が倉のどこに保管されているかを絶えず把握していなくてはなりません。質屋の場合、取り扱い品目が多く、大きさも形もまちまちで一概に預かった順に保管できないところに苦労があります。

整理の仕方は店によって独自のノウハウがあり、
一例をあげますと、
  「カメラはレンズなどの付属品と一緒に箱に入れて棚の上部へ」
  「ブランドバッグは箱や紙袋で保護し型くずれしないよう注意して棚へ」
  「腕時計、指輪、宝飾品は専用箱に入れて整理庫へ」
  「絵画、美術骨董品は包装して棚へ」
  「着物は専用の衣裳箱に入れて棚積み」
  「ミンクのコートはボックス内でハンガー掛け」
  「ビデオカメラは充電器などの付属品と一緒に包装して棚へ」
  「デッキ、ワープロ、パソコン、MDはクラフト紙に巻いて棚へ」
  「電子手帳などは付属品と共にナイロン袋に入れて小物雑品の棚へ」
  「ゴルフ、ギターなどは大型雑品のコーナーへ」
  「それ以外のものはその都度考える」
  「各部所では原則として日付順に並べる」
などがあります。

こうした品目別の整理以外にも、倉の中は比較的フリーにしておいて棚に何番、棚板に何号と付けてその何番何号の住所(置き場所)を帳簿に控えておくとか、特に利用の頻繁なお客さんは専用のボックスを設けて集中的に保管するとか、大筋はその店の歴史、慣習によります。またこの頃はパソコンに入力して検索できるようにするなど、他にもいろいろ工夫している店もあります。最近のように着物が減ってブランドバッグが多くなると、空いた着物の棚にバッグを並べるようになるのですが、今度はその着物の空箱の置き場所を考えるなど、スペースの取り方にもいろいろ苦労をしています。

10年ほど前になるでしょうか、カメラが減って、ビデオカメラの入質が増えた時期がありました。そうするとカメラを置いていた棚をビデオカメラが徐々に占領するようになったのですが、それが今、再び逆転してカメラが多くなりビデオの棚を占領しつつあります。中古カメラが最近ブームになっていますが、ブームになるとその品目の扱いが増えます。ブランドバッグが流行るとヴィトンやシャネルが倉の棚を占め、機械時計に人気が集まるとロレックスやオメガが倉の整理庫を満たします。ブームになると物がうごく。ものが旅に出て、なかには質屋の倉に泊まるものもあるわけです。

「必ず迎えにいくさかい、しばらくの我慢やと言われたけど。 ほんまに来てくれるねんやろか。無理やったら、流してもうてもええねんけど。ここは同じような仲間がいて楽しいし。それに、質屋はんに新しい主人捜してもらうのも悪くないし。」泊まっている物の気持ちは、案外、そんなとこがホンネかも知れません。こうなると物にとって質屋の倉は、次の主人が決まるまでの仮の宿と言えるかも知れません。
 

 
98.08.08 記
        電話加入権の相場

現在、電話をつけるためにNTTへ申し込むと、始めに72.000円(施設設置負担金)が必要です。これは外国に比べて高く、また携帯電話のそれが無料であることもあり以前から問題になっていました。ISDN回線については平成9年7月7日より、申し込み時に72.000円を支払うタイプ−1と、最初は無料で毎月の料金が640円高くなるタイプ−2とを選択するようになりましたが、この選択制度が近い将来、一般加入電話にも導入される見通しのため、市中の加入権相場が下がっています。

以前から要らなくなった電話は局へ返しに行っても、最初の申込金は返してくれませんでした。その電話を、これまで電話業者や質屋は、50.000円前後で買い取って、必要な人に60.000円前後で販売していました。新規に申し込むより安く、また加入権は品物のように古くなりませんので、要らなくなっても余り損をしないで売却でき、需要が多く、特に学生や短期利用者に喜ばれてきました。売買時には未払い料金の精算を伴うので、NTTサイドにとっても都合がよく、電話売買業は優秀なリサイクルシステムでした。

この売買の仕組みによって電話加入権は昔から利用者固有の「財産権」として広く国民に親しまれてきました。売却すればいつでもお金になり、緊急時には電話金融の担保にもなる加入権は庶民にとって大きな潜在的資産です。国も税制上、消却できない資産としてこれまで財産権であると認めてきました。また数年前まで申込金の70%ほどで売却できたので、電話をつけたという人も多くあります。このため加入権相場を下げる新制度の導入は既存利用者の利益を損なうとする意見が多くあります。

加入権相場の値下がりは利用者の資産、つまり電話を引いている全ての家庭の資産がそれだけ目減りすることになります。それでこの財産権の問題と、料金不払いのまま使い捨てられる電話を防ぐため、 NTTは新制度の導入時に「保証金」、あるいは、「基本料の前納金」として30.000円前後を徴収する方針です。以上の条件下で市中相場は需要と供給、そして様々な思わくを織り交ぜて落ち着き処をさがしています。

質屋の仕事の仕方としてはその時々に絵をかいて売値と買値を決めて行くのですが、電話加入権について次のような考え方もできます。新加入制度が導入されお客様が仮に申込金の要らないタイプ−2を選択したとしても、「保証金」、あるいは「基本料の前納金」 として30.000円前後は必要になります。また毎月の料金が640円高くなるのですから、既に72.000円の申込金を払い込んでいるこれまでの加入権にくらべ、5年で38.400円多く支払うことにもなります。そしてその後も毎月640円多く払い続けなくてはなりません。以上から、では既存の加入権の適正相場は幾らか。もちろん最終的に相場を決めるのはお客様です。

現在、NTTへ申し込むと、
  72,000円(施設設置負担金)+800円(契約料)+3,640円(消費税)= ¥76,440円 が必要です。
9月末現在、当店の、
  買い取り価格は ¥30.000円 
  販売価格は   ¥42.000円 (消費税込み)です。
買い取りは電話料金の支払いが終わった休止中電話に限ります。
売りも買いも名義変更は当店で致します。変更料は当店負担です。
 

 
98.06.01 記
        質流れ品ショッピングモール

当ショッピングモールの値段の付け方は極力、適正価格を心掛けています。ですから高い物がないように、極端に安い物もないと思います。ブランド、人気、定価、使用程度などからくる質屋の相場感にもとづいています。その品物の業者間の取引相場に、販売利益を乗せたものだと考えていただいても結構です。もともと七番街はそのような質屋の相場情報モールとして運営しております。

スーパーが客寄せのために極端に安く売ることはあります。パチンコ店が「本日開店。特別サービス」をすることもあります。しかし一般に質屋はしません。サービスと言っても結局、他で赤字分を取り戻すわけです。先者勝ちといった消費者の心理をあおって他で収支決算を合わすのは、本来、質屋の体質に合いません。スーパーは安売りするのに納品業者を叩ますし、デパートは売り出しするのに出入り業者を泣かせます。しかし質屋の場合、仕入れ先はお客様です。質屋にとって品物を持って来られるお客様が一番大事です。質屋は叩きませんし、お客様を泣かせません。ですから販売品に、極端に安い物のある筈がないのです。極端に安く売ることは、安く仕入れる、安く質預りすることに繋がります。それは質屋の自殺行為になるのですから。

橋本質店は損をする人と極端に儲ける人を作りません。適正な価格で取り、必要とされる人に適正な価格で販売します。マラソンのランナーが1キロ3分のラップを刻むように出入りの少ない商をします。ネット上の七番街も、当店のそのようなポリシーのもとに行っております。どうか以上の主旨をご理解の上、七番街をご利用下さいませ。
 

 
98.03.06 記
        ブランド もの

ルイ・ヴィトンが質屋のカウンターに登場し始めたのは平成に入ってからである。「ブランドもの」という言葉が質屋の代名詞になるずっと以前のことで、その頃、質屋の扱うバッグといえば クロコ か オーストリッチ だった。ブランドものについての業者間の相場もまだ定まらず、お客様の言われる買値を基準にして今より随分安い値で取引していたように思う。

質流れになったものや、買い取ったものをウィンドーに並べて売っていると、それを見たお客様が 「そんなのお金になるの?」 とまたブランドものを持って来られる。そのなかで、ヴィトン、シャネル、エルメス、グッチなど当代人気ブランドのものを継続的に売りに来られる方があった。そうなるとこちらも気を入れて勉強しなくてはならない。ヴィトンのカタログを取り寄せ、ブランド関係の雑誌を買い、新聞の折り込みチラシを切り抜いて実勢価格を知り、ブランドショップを覗いたりして、情報収集を心掛けた。次々に持ち込まれるバッグやサイフに積極的に値段をつけているうちに、いつの間にか店内はブランドものが所狭しと並ぶようになった。今日、インターネットでブランド品の販売まで手掛けられるようになったのも、このように質屋を育てるお客様がいて下さったからである。『店はお客様が造る』 と思う。
 

 
97.08.16 記
        グッチ バンブーバック

質流れ品のバンブーバックを販売してお客様に指摘されたのですが、取っ手のバンブーが開いていると言うのです。見るとなるほど竹が真直ぐになろうとして、継ぎ手の革を引っ張っています。グッチショップへ聞いてみると、「取っ手のバンブーは熱を加えて曲げてあるので、竹の性質上、年月とともに伸びることがあります。そのように販売時に説明して、開かないようにゴムバンドを装着しています」とのこと。しかし高級ブランド品がそんなことで良いのかと思い、「安物の傘の竹の柄でも伸びない。柄の『し』が半年して使おうとしたら伸びて『く』になっていた、なんてことは聞かないよ」と言っても、グッチの若い女の子には、どうも分からないようです。「バンブーは焼き直しするのではなく、取り替えになって有償です」と言う。

質屋は保管中の品物の自然な変化について、勿論お客様に責任は負わないのですが、流れた場合には値打ちが下がることになり、そのような意味でも保管には大変気を使います。前にバンブーバックを預かる時、太いゴムバンドが付いていたことがありますが、一般に質屋はセロテープやゴムバンドは長期の預かりになった場合、「煮え」たり「溶け」たりして質物に跡を残すことがあり嫌います。それで当店では最初何の為に付いているのか分からず外していました。今は幅広の荷造り用の紐でバンブーを結わえています。一度開いたバンブーは、紐で縛ってしばらく元のアーチにしておいても、解くとまた伸びてしまいます。それで昔、竹でソリを作ったことを思い出し、バンブーをガスであぶってすぐに水に浸けました。これでなんとか曲がり具合は調整固定出来るようです。

しかし、思います。例えば数十年前に竹で編んだ花入れが今だに何のくるいもなく美しい曲線を保っているのに較べて、これは何とつまらん製品であることかと。確かに現在ブランド品は人気があって当店でもよく売れます。しかし若い女性がこんなつまらない物に騒いでないで、真に素晴しい商品に興味を持って頂ければと思います。その方が質屋も目の利かし甲斐があって面白いのです。
 

 
95.10.10 記
        買い取り相場のお問い合わせ

買い取り相場のお問い合わせにつきましては、出来るだけ正確に詳しくお書き下さい。ただ漠然とした質問にはお答えのしようがありませんので、お客様方にて知り得る内容を出来るだけ多くお書き下さい。

お客様が病気の時、医者に「熱があるのですが何の病気でしょう」と尋ねられても、それだけでは医者も答えようが無いように、質屋も「ダイヤの指輪ですが幾らになるでしょう」と訊かれても、それだけでは値付けのしようがありません。医者は患者に問診をし、聴診器をあて、脈や血圧を計り、そして必要とあればレントゲンを撮り血液を検査して病名を絞り込みます。同じように質屋も品物を手に取ってルーペ等でみないと、正確にはお答えできません。ただ毎日が物を見て値付けをする仕事の連続ですので、医者にとって「問診」にあたる、その品物の詳しい情報をお聞かせ頂ければ、相当に絞り込んだお答えのできることがあります。お試しください。

 

 文責  橋本洋介

 
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