「質屋の風景」
07.05.28 記

       店の前の道

雨降りの日は、店はたいがい暇である。そんな日はよく事務室の窓から外の景色を見ている。この季節、店のガレージやその先の近所の家の木々の緑が美しい。店は静かで美しい環境の中にある。これで普段からもう少しお客様が多いと言うことないのだが、しかしそれにはもっと賑やかな所がいいのかも知れない。では、騒がしくてもお客様が多い方がよいか、静かで美しい環境の方がよいかと言ったら、今の気分としては静かで美しい方がいい。

以前はよく、若い女の子がブランドバッグを見に来た。「キャー、ルーピング!」「キャー、・・・」。騒がしいばっかりで買わないのだが、いつも数人で決まって朝10時前に来た。最初は何かの仕事をしている仲間かと思っていたが、皆さん主婦で子供を保育所へ預けた帰りに車に分乗して来るようだった。ブランド雑誌を持ってブランド品を売っている質屋を見て回る。またある女性はいつも子供をガレージで遊ばしておいて店内のバッグを見ていた。ある時、小さな子供一人で放っておくと危ないからと注意すると切れてしまって、ガレージの砕石(砂利)を靴の踵で蹴飛ばしたおして帰っていった。

ガレージには砕石を敷きつめているが、雨の日などこの砕石が静かに濡れてしとっと美しく、もうこのままガレージに車が入って来なければいいとさえ思うことがある。ガレージに砕石を入れたのはこれで3度目で、前の道との間に溝がありグレーチングを並べているのだが、そのグレーチングの目の間からいつしか砕石が溝に落ちて減ってしまうのである。最初は店を建てる時に工務店の人がA級砕石より土の混ざったB級砕石の方がよく締まって車の出入りに良いからと入れた。しかしこれは雨の日に土がお客様の靴に付いて店に上がって困った。二度目は近くの家の建て替え工事の時に、ガレージを使わせてもらったお礼にと工事の人が入れた。しかしこれは大き過ぎたのか落ちつきが悪く車が出入りすると上面がよく波打った。三度目は知り合いの植木屋さんに頼んで入れてもらったが、さすが庭師だけにこの砕石はよかった。大きさがよく自然と落ちついて、特に雨の後など少し黒ずんで見ている者の心まで落ちつく。

その砕石を時々、塾通いの小学生がザーザーと靴の先で蹴飛ばして歩いて行く。何かを蹴飛ばしたいのだろう。その度にまた何個か溝に落ちる。また昼間、小さな子供を連れた奥さんが道で会って立ち話をする。車を避け溝のグレーチングの上で話がはずむ。その足もとで子供が小さな両手で砕石をいっぱいすくって競って溝へ落としている。石を溝へ落とすのが面白いのだろう。その作業を通じて子供同士が仲良しになる。見ている私も面白いような、堪忍してくれと出て行きたいような。しかし、たかが砂利で出て行くのは、「ロレックスの時計、キャラ石のダイヤ。思いっ切り高い値段付けさせてもらいます」と、太っ腹を売り物にしている質屋の主人にしては、あまりにみっともない。だから止めた。そうしたことや車の出入りやいろいろなことがあって、何年かすると砕石が少しずつ溝に落ちて減る。そしてまたガレージの砕石が溝の縁からうすくなってきた。

 


07.05.05 記

       花水木

店のガレージの端に一本の花水木がある。20年前、この地で商売を始める時にブロック塀ばかりではガレージが殺風景だと知人が苗木を植えてくれた。毎年4月の中旬、他の家の桜が終わった頃にピンクの花を咲かせる。

植えた当初、若木の花水木は立ち姿がよく四方に枝を広げ、道路の近く目線の高さに愛らしい花を付けた。店の窓から見ていると、歩いて来た人が花を見て一様に何か楽しそうな嬉しそうな様子をした。ちょうど難しい顔をして歩いている老人が乳母車の幼児を見て、とたんに嬉しそうに近づくように、当時この木には何か見る者の心を喜ばせる強い力があった。

そうした花水木のすぐ横に、木斛(もっこく)が頭を払われて蹲っていた。それはある時、植木屋さんに頼んでガレージにジャリ(砕石)を入れてもらう折り、ジャリを積んだトラックに姿のいい木斛が一本積んであった。折角のものだから貰っておきたいが、ガレージは広く空けておきたいので、どこにも降ろし場所がない。それで結局は花水木のふちに植えてもらった。ところが後日、知人から異議が出た。近すぎて先で木が大きくなって喧嘩すると言うのだ。花水木は親切で植えて下さったものだが、木斛は植木屋さんに金を払ったのだから私の自由にできる。ここは切らねばならない。それで、地上50センチのところで切った。枯れる様子はないが花水木の横で哀れであった。

  4月道 華と哀れが 右左

その後、花水木は幹が太くなりアイドル性がなくなった。もう昔のように花の咲く頃に見る者の心を華やかせる強いものがない。3年前には大量に毛虫が付いた。また園芸の心得のない私がむやみに枝を切るので樹形が崩れた。その代わり落ち着きがよくなった。また夏には葉っぱをいっぱいに付けて道を通る少しの風にも枝をゆらしている。冬には鉄サビ色の葉っぱを数枚付けて、何となく大人の雰囲気も出てきた。

一方、50センチのところで幹を切られた木斛はその後、元気なく蹲っていたが、ここ数年樹勢がもり返し盛んに枝を伸ばす。数年前から下の方の枝は丸く刈り込むが上に伸びる2本の枝は切らずにそのままにしている。その2本が勢いよく真っ直ぐ伸び、今、花水木の横で一風変わったモダン刈りの姿で立っている。

 


07.04.23 記

       信号が黄色に変わったら

 

質屋はお客様が持ってこられた品物は、そのお客様のものであると考える。

あるいは仮にお客様のものでない場合にしても、そのお客様に処分権限があるものだと、

面前で特に不審がなければ、質屋はそう考えて問題ない。

そして運転免許証などで住所・お名前を確認し、

手続きを経て、取引としては青信号を確認してからスタートする。

しかしごくたまに、そのお客様に品物について完全に処分権があるかどうか、

取引を重ねる内に、青であった信号が黄色に変わることがある。

では取引において信号が黄色に変わったら質屋としてはどうするか。

 

一般に質屋の考え方としては車の運転と同じで、

黄色の信号は注意の信号だから進むには特に注意して、

そのお客様に品物について処分権限があるかどうかを調べて、

OKであればその記録を残し取引を続ければ良いとする。

しかし他方、これまで質屋の組合は黄色の信号についてもう一つの方法、

「交差点に入って信号が黄色に変わったら」、の場合。

むかし自動車の教習所で習ったその答え、「すみやかに交差点から出る」、

を組合員に薦めてきたように思う。

この違いは個々の質屋は一般に取引を続けたいと行動するものだが、

一方組合は業界団体として特別金利をお願いする以上、

あくまで襟を正す必要があると考えたからだと思う。

こうした組合の立場と、個々の質屋の商売との間の、

いわば内なる矛盾は昔から本質的にあったと思う。

 

昨年、質預かりにおける即時取得の成否をめぐって質屋を相手に民事訴訟が起こされた。

判決は、「質屋に過失があるとまでは言えない」として、

原告の請求が棄却され質屋の全面勝訴であった。

過日この裁判例を参考にして弁護士さんの講習会があった。

それに基づいて組合が勝訴に繋がった質取引の調査と記録の仕方を薦めるが、

どこにも降りる、つまり取引を止める話は出てこない。

確かに市場経済下の質屋組合の立つ位置はもう昔とは違うとする考えはある。

しかし組合が、片方で特別金利をお願いして、

もう片方で、優秀な弁護士さんを雇って、こうしておくと訴えられても負けないと、

欧米流の市場経済の方法を薦めると、今度は外との間に矛盾が生まれる。

 

 

 

 


07.03.26 記

       不都合な事実

 

店のウインドウに並べて売っているヴィトンのポシェットが、

先日なくなった私の物と同じなので、誰が売りに来たか教えてほしいと、

そう言って若い女の子が入ってきた。

 

しかし売った人の名前など教えられるはずもなく、

断ると次に、口の達者な年上の友達を連れてきた。

しかし何と言われようと質問の内容は店の業務のことであり、

護らなければならないお客様の個人情報である。

品物はヴィトンのポシェットで同じ型の物は何千個、あるいは何万個と売られている。

しかも新品同様の物で特長がない。

それを自分の物だと特に疑うのはおかしいと思うが、同僚の誰かを疑っているようでもある。

なおも執拗に聞くが、私が拒否するので不信感を募らしてくる。

それで、君が道を歩いていて、たまたまよその家の窓の内に、

自分の無くなったのと同じ形のバッグを見つけたからといって、

その家の玄関を開けて、窓から見えるバッグは先日無くなった私のと同じですが、

どこで買われた物ですかと、そんな失礼なことを聞きに入るかと言うと、

口の達者な方が、私は聞きに入りますと言う。

もう仕方ないので、買い取った物にしろ質で流れた物にしろ帳面に記録はある。

それは誰にも教えられないが、警察の人なら帳面を見ることができる。

警察に相談に行ったらと言った。あくる日、二人の刑事さんが来られた。

そして結局は刑事さんが、無くなった品物でないことを答えられた。

 

私は子供のころから家が質屋だったから、

新聞に「容疑者○○は盗った品物を質入れし・・」と載るのが嫌だった。

大人になって商売をするようになって一層この新聞記事の(ドロボー・・盗品・・質屋)が、

何か犯罪の世界に質屋が繋がるような印象があって嫌で、何とかならないかと思った。

だから例えば、検事が起訴状に「被告は盗品を質入れし・・」と書く必要はあるとしても、

はたして犯罪を報じる一般紙が「・・質入し・・」とまで書く必要があるだろうかと、

新聞社に申し入れてみたらどうだろうかとさえ思った。

 

そうした新聞の記事や、テレビの刑事ドラマの質屋の扱い方などがあって、

先ほどの女の子のように、物が無くなったら質屋に入ってないかと疑う人がある。

しかし質屋にすると、物が無くなったら「お宅に入ってないか」とは失礼な話だ。

もともと質屋に盗品が入る確率は大変低い。

現実に私の店も年間通じて一回も出ない年の方が多い。

だから物が無くなって質屋を捜すのは愚かなことだと、

いつもその種の問い合わせには返答している。

しかし残念なことに、絶無ではない。

だから質屋は預かり品の記帳に励み、刑事さんは台帳に目を凝らす。

そしてごくたまに刑事さんによって盗品が発見される。

その時は質屋は品物を任意提出し、刑事さんは何枚もの書類を作ることになる。

 

それから二週間ほどしたある昼下がり、店の前にワンボックス車が止まる。

助手席から降りた人が前へ走って行って振り向いてカメラを構える。

店とワンボックス車の間に、カメラに向かって人が立っている。

その間ほんの10秒。誰も気づかない。静かな道に現れた一瞬の異界。

確かにドロボーは捕まえて罰せなくてはならない。

そうでなければドロボーが増えて、盗られて難儀する人が多くなる。

だからドロボーを捕まえるというこの世の負の始末を警察に任している。

そして多くの人は任せた以上、負に係わる一切のことは、

不都合であるが故に係わり合わないようにしたいと思う。

しかし質屋はこの事実に、不都合でも何でも係わり合わんならんことがある。

 

私は昔、刑事さんに店でシィーと言ったことがある。

盗品が発見されると刑事さんが店の事務室で調書を取られるが、

調書というものは最後にこれでよいかと刑事さんが読み聞かすのが原則のようだ。

それで、「刑事さんからお尋ねの○○○○さんから質取りした時の事を述べます・・」

と読まれるのだが、小さな店だから内容は聞こえなくてもお客さんには気配で分かる。

途中でついシィーと言ってしまったのは、

この不都合な事実を声にだして読まれる難儀に耐え難かったからである。

もっともその後は、頭を掻きながらお客さんの前へ出て行ったのだが。

 

 


07.02.28 記

       クサマシ

 

「ロレックスの時計を質屋に持って行って、

これはいつも見るものと違うから預かれないと言われたら、お客さん困るやろ。

売った時計店も、質屋で断られたと文句言うて来られたら困るやない。

だから普通そんな時計は売らないやろ」と、

贋物の時計を入質に来て、有名な店で買ったものだと嘘を言う若者を私が店で怒る。

 

このように質屋をだましにくる人、特にそれを仕事にする人を、

関東では「置屋」や「入れ込み」、関西では「クサマシ」と呼ぶ。

以前から大阪の古物市場では買い手が高買いして失敗すること、

目利きをしくじることを、自嘲を込めて「くさむ」とか「くさんだ」と言っていたが、

質屋の場合も見破れなかった自分がプロとして失敗したのだとして、

質屋を失敗させに来る人、くさまさせる人、くさます人、くさまし、と呼ぶようになったのだと思う。

しかし、この「クサマシ」という如何にも大阪的な言葉に引きずられて、

相手の悪意が隠れてしまうが、実態は完全に質屋をだましに来ているのである。

 

取引に於いて騙す騙されるとすると相手を罪人にするから、

へりくだって相手が悪いのでなく、自分が誤ったとするのは商売人の知恵だろう。

しかし先の若者のように贋物組織の末端でアルバイト感覚でやっている子に、

例え相手が質屋であっても、贋物と知ってて騙そうとするのは悪いことだから、

くさむ、くさます、といい加減にしないで、君のやっていることは大変悪いことだと、

きっちり解らせることは必要ではないか。

質屋を騙せたら金儲け、見破られたら、そうですかで無傷で帰れる。

だから、若い子が失うものは何もないと考えるのは大きな間違いだと、

質屋がクサマシに諄々と説教したとしたら。

 

「おやじさん、お陰で私はすっかり目が覚めやした。

明日から、クサマシ稼業から足を洗って、まっとうな世界生きていきやす!・・」

・・・しかし、これもクサイなー。

 


07.01.25 記

       今ごろどんな恐いめに遭うたはるやろ

 

質屋では品物を預かるとお金と一緒に質札を渡す。

質札には契約の日、流質期限、金額、品目、お客様の名前などが書いてあり、

品物を持って帰る(受け出す)時にはこの質札が必要になる。

しかも本人(質札の名義人)の来店が原則で、質札は引換券でないから第三者が持参しても、

品物を持って帰ることは原則できない。

この原則を前にして、質札があるから品物を返せと言う第三者と、

いや本人でないから返せないと断る私とが店でもめたことがある。

 

5年ほど前のある日、60才前の男が女性名義の質札数枚を持って受け出しに来た。

本人でないからと断ると、質札があるから文句ないやろと言う。

しかし、お宅さんはこのお客さんとどういう関係ですかと聞くと、

この女性に借金を一本化したいと頼まれたので質屋に入っている品物を出しに廻っている。

こうして一任するという本人の委任状もあると見せる。

しかしこの手の借金の整理はお客さんにとって危ない流れだと思った。

それで確実をきしたいからあくまで本人に来てもらいたいと断った。

そうすると、質札があって委任状があって、それでも受け出しを拒んだら、

俺が損害賠償おこしたらお前とこは負けるねんでと言う。

しかしこの場合、受け出しに応じるかどうかは質屋の裁量でいいはずだ。

 

なおも受け出しを拒むと、次に男は携帯で本人を呼び出して、私に話してくれと言う。

出ると確かに女性本人と思われる声で、その男の人に品物を返して下さいと言われる。

それでも何とか都合を付けて来て下さい、待ってますからと私は言った。

待っている間に男と雑談すると、社長の運転手というこの男は、

利息制限法の話をちらつかすが、金融屋さんというより、

女性に仕事を世話してくれる、そういうのを何と言うのか、

例えば時代劇に出てくる口入れ屋と女衒の間のような、そんなニオイがある。

40分ほどして女性は一人でタクシーで来店された。別に拘束されているようではない。

心の糸が切れたのか前とは随分様子が変わられたが、

本人が来店して受け出してと言うのだから、質屋としてはもう受け出しを拒む理由はない。

 

これで一巻の終わりだが、あの場面で何か出来なかったかと考えることがある。

昔、近くの質店に気丈夫なお母さんが居られたが、このお母さんなら、

「もう一遍よう考えよし。あんたの地獄がそこに見えたるがな」

ぐらいのことは言われただろう。そうするとこのお母さんの方が質屋としては上等や。

上等な質屋になるための組合勉強会。

しかしこれは知識でなく質屋の人間力だから自分で身につけるしかないか。

それにしてもいまだに家内が言う。「あの人、今ごろどんな恐いめに遭うたはるやろ」

さあー。

 

 


06.12.01 記

       質屋の目利き相談会(無料) のお知らせ

 

ネットで買ったブランドのバックは本物だろうか。

主人にもらったダイヤモンドの指輪は幾らほどの値打ちがあるのだろうか。

このネックレスは、この腕時計は、このカメラはと、

自分の持ち物の現在の値打ちを、お知りになりたい人がおられると思います。

そうした質問に質屋業35年の現役の質屋が分かる範囲で無料でお答え致します。

 

もちろん最近はブランド品などプロでも真贋を見極めるのが難しい物がありますが、

一般的な質屋の目の利かせどころや、相場の踏み方を説明することで、

「最後は自分で値打ちを考える」、そのお手伝いができればと思います。

ご質問の品目は前もってお知らせください。

書画骨董、美術品は不可です。会場での買い取りはできません。

 

  会場   枚方市駅徒歩3分 岡集会所 (枚方市岡南町3−19)

  日時   毎月 第3土曜   午後3時〜4時迄

        (都合で6月から毎月、第3土曜に変更になりました)

 

連絡や問い合わせは橋本質店へ。 п@072−845−0200

会場(岡集会所)は駐車できません。車でのご来場は遠慮ください。

 

 

 


06.07.28 記

       若い女の子を泣かしてどうするの

 

このルビーの指輪は45.000円、この18金の指輪は7.000円と、

二週間まえに私が値を付けたと、その女の子は言う。

 

確かにこのルビーの指輪は45.000円と付けたが、

そうですか、と言って持って帰ったのを覚えている。

しかし同時に18金の指輪は6.000円と付けたことも覚えていた。

念のためもう一度グラムを計ると6.000円がいいとこだ。

それで、確か6.000円だったがと言うと、

いえ7.000円に間違いありません。メモしましたから。

メモの用紙は家にあります、と言う。

 

どうしたものかと考えていると、

メモを見ても私の控え間違いかも知れませんし、と女の子は変わってきた。

それでこう言ってみた。

このルビーの宝石を幾らに評価するかはプロでも時により違いは起こる。

しかしこの18金のリングは重さによるから、

これを7.000円と言う筈がないねん。

しかしどうしても7.000円と言ったと言うなら7.000円で買おう。

その代わりこのルビーの指輪は、今日は40.000円や。

それでよかったら身分証明書を見せて、

この買受け票に、名前、住所、生年月日を書いてください。

 

きっと私が前に付けた45.000円の値はダントツに高く、

二番手の店はもっと安かったのだろう。

だから仕方なく今日は40.000円でも売ろうとするが、

買受け票に名前と住所を書いている途中で、

高く売ろうとして、返って安くなって情けなくなってきたのだろう。

こないだは45.000円で、今日は何で40.000円なんですか、と涙ながらに聞く。

君が嘘をついた「罰金や」と言うと、ウワァーと一段と大きな声で泣き出した。

いかにもしっかりした、女子アナでも目指そうかという20才の女性が、

たった1.000円サバ読んで質屋のおっさんに怒られて、

5才の女の子のように涙ボロボロになった。

 

もうえい。45.000円で買うとく。18金のリングは6.000円や。

領収書代わりになるから、よかったらここへ51.000円と書いて。

結局、ハンカチで目を押さえながら逃げるように店を出ていった。

後で家内が私を怒る。若い女の子泣かしてどうするの、と。

確かに若い女の子が店から泣きながら出て足早に去るのを、

近所の人が見たら何と思うだろう。

橋本さんとこは、まるで時代劇に出てくるようなあこぎな質屋や。

いえ決して、そんな悪いことはしてないんですよ。

 


06.06.26 記

       近所の人を驚かさないで欲しい

 

こないだ橋本さんとこから出てきた男の子が、

急に「やった!」と言って道でガッツポーズをした。

あれは何ですかと、近所の人に聞かれた。

目の前で不意に「やった!」と一人でやるものだから、

たまたまガレージに居られたご主人がびっくりされたのは無理もない。

理由は込み入っていて私もすぐには答えられなかったが、

それはこういうことでした。

 

このごろ若いお客さんは品物を高く売ろうとして何軒かの店を廻ります。

私の付けた値段が前の店よりよほど高いと”もうけた”と思い、

「メッチャうれしい」とにぎやかに喜ぶ若い子がいます。

しかしまた、すましたした顔をして、「そうですか。そんなものですか。

他店へ行っても一緒でしょうね」と、さもその値段では不満足だけど、

仕方なしで売るという態度を示す若い子がいます。

前の店より高いので”もうけた”と内心は思っていても、

率直に、この店が一番高かった、という態度を出したくないのです。

しかし若い子ですから店を出たところで嬉しさをこらえきれず、

少し歩いてたまらず「やった!」とするのだと思います。

その感情を押さえていられる限界距離が、

私の店を出て、ちょうど近くの家の玄関の前あたりになるようです。

 

何もそうすまして「そんなもんでしょうね」などと言わなくても。

私もプロですから、お客さんが前の店より高いと喜んだからと言って、

一度付けた値段を、少しまけてくれ、などと言いません。

だからお客さんももっと率直に、「高い値段を付けてくれてありがとう」と、

喜べばいいと思うのですが。

 

しかし私に「しかたないですね」などと格好を付けた手前、

どうしてもすました顔をして店を出たいのなら、

たった数十歩あるいた所でガッツポーズしなくても、

もう少し我慢して駅のトイレに入って鍵をかけてからガッツポーズをするとか、

いっそのこともっと我慢して、旧国道を突っ切って淀川の河川敷へ出て、

広い原っぱで思いっきり「やった!」と叫ぶとかしたらいいと思うのですが。

まあ、どちらにしても近所の人を驚かさないで欲しいと思っています。

 


06.05.25 記

 

久しぶりにこのページに何か書きたいと思った。

それで一年ほど前に店であった些細なことだが、その後長く気になっていることを書いてみようとした。しかしこの件はお客様の良い面でないし、また美しい行いでもない。それで人物を架空のご婦人にして少しふくらまして書いてみた。それでも掲載するのに反対の意見が内部に強かった。理由は、話が面白くない。読んで明るくない。お客様を悪く言っている。店の宣伝にとってマイナスである、と。

しかし、質屋で毎日そんなに明るく楽しいことが多くあるわけではないし、実際はお客様の良くない面や、弱い面や、美しくない面が出ることも多い。だからもし質屋の仕事として、そうしたお客様の良くない部分に上手く対応できれば、お客様にプラスになると思うことがある。そしてまた、そうしたことを書くことは質屋の商売の内容にはいろいろなことがあるという記述にもなる。そのことが文章に出ているのなら載せる意味があると考えた。それで掲載することにしました。

 

06.05.31 (削除)   一度掲載しましたが、しかし文章が面白くないという意見が多くありました。それで取りやめました。


04.08.25 記

       再び「きいたる」、あるいは「におい」について

 

例えば若者が社会へ出て仕事に就くとする。

その時、私は将来あの先輩のようになりたい。

いや、私はあんな上司のようになりたくない。

若者は先輩や上司を見て真似をするにしろ否定するにしろ、

そのようにして仕事をおぼえ成長していくものだろう。

そしてその時もっと深い部分で、

若者によっては否定も肯定もしないままに、

自然にその仕事の「におい」といったものを、

身につけていくのではないだろうか。

質屋の場合、それはこれまで「きいたる」ではなかったかと思う。

それは一つには、お客様が「頼みます」と来られたのに対して、

「きいたる」という度量を示す質屋が、

結局は成功するのを見ていたからだと思う。

 

そしてもう一つの理由として、質屋の若者が出入りする古物市場で、

古物屋さんが買わせてもらいます、

市屋さんが振らせてまらいますと気を使うような、

そうした市場で「売ったる」者になることが、「きいたる」と同じように、

質屋として成功することだと考えることがあるのではないだろうか。

 

昔は古物市場では古物屋の大将は「買うたる」、

大きな質屋の旦那は「売ったる」、

市場の振り手は「振ったる」、であった。

それが格によって、駆け出しの古物屋は「買わせてもらいます」、

中たれを売る質屋は「売らせてもらいます」、

また市場は売手によって「振らせてもらいます」になった。

絶えず市場にはそのように上下の格があったとおもう。

質屋の大将は古物屋さんに「損やけどしょうがない。売ったるわ」と尊大に言い、

買い手は質屋に「何ぼやねん。買うたるがな」と言うことがあった。

いたるがな、買うたるがな、売ったるがな、ができるのは男の甲斐性!

そうした考えが昔は市場全体にあったとおもう。

だから自分も、それが出来るようにと思った人はいただろう。

その後は自然と「売ったる」、「買ったる」、「きいたる」の態度はなくなったが、

今でも市場で大手の売り手が立てられるのは違いない。

 

私の若いときにあった例を書くと、

・・もう市場は夜の10時を過ぎて、来ている質屋の荷は全て競り終わっていた。

しかし未だに一軒の大手の質屋の姿が見えない。

荷は既に届いていて目の前に積んである。

しかし肝心の質屋の大将がいないのだから、

40人ほどの古物屋さんが競り台を囲んで到着を待っている。

誰しも早く買って帰りたい。場が徐々にジリジリしてくるのが解る。

しばらくすると市主がそれを感じて、

もう店を出られてますので少し待ってくださいと頼んだ。

そしてやっと着いた質屋の大将は、

このまま祇園へ飲みに行けるような格好をしていた。

・・・そのご登場の様子があまりに格好良すぎる。

立派な古物屋さんを待たせておく、

大きな質屋が毎月吐き出す質流れ品の力というものを見て、

すごいものだと思ったのは確かである。


04.08.08 記

       質屋のにおい

 

このごろ自分のやっていたことが間違っていたのではないかと思うこよがよくある。

自分が一番やらないようにしょうと思っていたことを、

いつのまにかやってしまっていたのではないかと。

人は誰でも長く仕事をすると自然とその職業の「におい」といったものを、

身につけていくのではないだろうか。

質屋の場合、その宿痾のようなにおいを言葉にすれば、

私は「きいたる」ではないかとおもう。

それはお客様が「お願いします」と来られ、

それを「聞い」たって「貸し」たったら商売になるから自然にそうなるのだとおもう。

私は昔からそのにおいが嫌いで自分は持たないようにしょうと思ってきた。

ところが去年その点をある処で偉い先生に指摘された。

「橋本は他所でもそれが出ることがあるから気つけなあかん!」

この先生の話はいつも考えさせるものがある。

よく考えてみると私は商売だけでなく、

ものの考え方にもそのにおいがついていて、ぞっとした。

今年に入り質屋の利息に利息制限法の適用はあるかが話題になるにつけ、

特にこの「質屋のにおい」のことをよく思う。

高い利息が「きいたる」の原資、「におい」の元だったのだから。

そして自分が昔に思ったことは、

質屋ももっと安い利息にし、お客様は借りる、質屋は貸す、ただそれだけ。

そうすれば「におい」も持たず普通にいけるのでは、ということではなかったか、と。 


04.01.27 記

       これからの質屋

店舗設計の会社から毎月のように宣伝のはがきがくる。
「何々質店様 新築オープン」と、
竣工した店が写真入りで紹介してある。
どの店も豪華な美しい造りで、
はがきを見ていつかは自分もこんな店を建てたいと思う質屋は多いだろう。

しかし私なら、いっそ病院風のこんな店づくりをしたいと考えた。
まず受付で健康保険書を預かって待合室で名前をお呼びし、
奥の部屋へ入っていただく構造にする。
部屋には小さな丸机を一つ置いて、そこへ品物を載せてもらい、
お客様と机のふちを回りながら、
これは良い物ですね、ここはこうですね、と言いながら値を決める。
これまでのカウンターをはさんだ対決の質屋から、
丸机の縁で話し合う協調の質屋へと。

それでもお客様と話がつかない場合は有識者に入っていただく。
そのために普段から調停役に、
新聞社の元論説委員
大学の元教授
組合の元組合長
会社の元社長
会計士
僧侶
詩人
・・、
キラ星のごとく知者を顧問にお迎えしておく。
これまで頭を使ってきた人は、体力は衰えても知力は衰えないものだ。
こうした偉い先生に、丸机で話を訊いてもらえば、
お客様はきっと救われた思いがするだろう。
老いた知者には本来そういう力があると私は思う。

そこで、いや、これまでは前置きで、これからが本題である。
先の受付で預かった健康保険書を使って病院のように、
質屋利息の7割をお客様の心身の治療費として保険で請求し、
残りの3割を自己負担としてお客様からもらう。
そうすると質屋金利のグレーゾーンの問題もおよそ解決するし、
そんな偉い先生に、
わずかの利息でいろいろ聞いてもらえるんだったら、
きっと心のケアになる。
私も質屋はんへ行こうという人が出てくるかもしれない。
質屋もこれからは建物に金を使うより、「知」の囲い込みに金を使うべきで、
先生方には毎月顧問料をお払いし、
レセプトに「被保険者に、心神の癒し効果を認む」とか、
「保険の適用を妥当と認む」とか、なんとか書いていただいて、
書類は組合を通じて警察庁を経、厚生省へ回る仕組みにすると。

実は、今から30年も前に、
そうした質屋の利息を、病院式に3割をお客様からもらい、
後の7割は国からもらうという、非常に大胆な発想を、
全国の質屋の集まりで言った人があった。
それは笑い話だったとはいえ、発想の底には、
「質屋の利息はサラ金のそれとは違うんだ」、という思いがあっただろう。
現在も組合の業報誌には、これからの質屋は、
「これまでの常識から一歩踏み出した大胆な発想と改革が必要」、
と書かれてあるが、
当時の常識からも相当踏み外した上記の健康保険書の利用案を、
今の時代にもう一歩踏み外すなら、
上のようなことがあるのではないかと考え書いてみた。

もっとも踏み外しついでに書くと、この方法は実際問題として、
調停役の先生が、お客様の味方をしだしたらどうなるだろう。
「橋本、お客さんがこう言うたはるさかい訊いてあげえな。
こんな気の毒な人が頼んだはるのに、
お前は何か、訊けへんと言うのか。なんと、見下げ果てた奴だ。」
いや先生、それと商売とは別ですねん。質屋も儲けて強ならんと。
人は自分が強ならんと弱い人を助けられしませんさかい、と言うと、
「利いた風な口を利くな。ばかもん!」と、きっとこうなるやろな。


03.06.25 記

       引き算ができない

先日、町内会の配布物の印刷をたのまれて枚方市の市民センターへコピーに行った。
市民センターでは申し込み書に輪転機の最初のカウント数を書き入れ、
自分で操作して印刷し終わると、終了時のカウント数を上の行へ書き入れて引き算をし、
枚数により僅かだが印刷代を払うことになっている。
ところが会計でこの用紙の上から下の引き算ができなかった。
下の桁から引いていって3桁めが上の数が小さいから、次の桁から借りてきて、
それで4桁めはと考えて、このあたりから紙の上で解らなくなってしまった。
自分も一瞬あせったが、目の前の市民センターの職員も驚いたと思う。

店の仕事では受け出し時の利息の計算も、販売時の消費税の計算も、
値決め時の商品定価に対するパーセント計算も、
経理の帳面も何もかもすべて電卓でしている。
すべて電卓がたよりで、ソロバンはないし、簡単な計算でもメモ用紙ですることはない。
それでとうとう簡単な引き算も紙の上で一瞬解らなくなってしまった。

簡単な計算もたまには電卓を使わずにしないと出来なくなるということから、
このごろ気になっている自分の目利き能力のことをおもった。
私は最近、目違いが重なるようになった。
以前は買い取り、質預かり、販売と、多くの商品の相場を絶えず踏んでいたから、
初めて見るものでも、経験でおおよそ解った。
あるいは解らないようでいても、結果は合っていた。
見たところで、あとの半分は頭の中でサイコロころがして、
そういうことをしても、結果は自分の目が出た。
あるいは1点は失敗でも10点合わすと結果はオーライだった。
それで初めての物でも何も怖くなかった。
だからケチらない、チビらない、すぐに一発で値をつけられた。
ところがこのごろ値踏みに詰まって頭の中でサイコロころがすと外れることがある。

それで前に先輩の質屋が言っていたことを思い出す。
質屋が閑になって、ついにお客さんが一日に3人や4人になると、
物の相場が解らなくなって値段をつけるのが怖くなると。
解らないから怖くて新しい物は扱わない。扱わないから余計に解らない。
その悪循環で、お客さんがどんどん減って、そうなると質屋の店としての死はけっこう速い。
ただ大昔のように扱う物がほとんど着物だった時代は、
正絹と人絹の区別がついて基本が解っていれば応用がきくから、
歳をとっても当分はそれなりに商売できたらしい。
盛業時が10とすれば、4や5は稼げたと。
ところがこの頃は物の移り変わりが激しくて、地値打ちという評価の仕方、
つまり最低でもこれぐらいはあるだろうという考え方が成り立たないから、
業界の集団について走ってないと、すぐに置いてきぼりになる。
そして脱落すると新しい物が解らないから値段をつけるのが怖くなって、
4や5の稼ぎでなく1や2になってしまうというのだった。
確かにこの10数年、質屋の若者が同業の集団から遅れまいと頑張るのも、
10か1かという極端へのおそれが一つにはあったと思う。

質屋は歳とって目が利かなくなると店が閑になるということは別にしても、
しかしこれからどうなるのかな。
生き残るために店の経費をどんどん削っていって、耐久時代に入るのだろうか。
食費も切り詰めていって。
しかしそうなったら当店は絶対に強いぞ。
この日のことを考えて、今まで玉子かけご飯に馴れてきたから。

03.05.17 記

       質屋に於ける理と情

女袷を5枚も風呂敷に包むとけっこう重い。
その重い包みをさげて、昔よくお婆さんが古着を売りに来られた。
しかし和服は当時から着る人が少なく、ほとんどお金にならないことがあった。
それで、「お婆さんの要らんようなもん、世の中もう誰も要らしませんねん。
だからあかんのですわ」、と言うと、
ガクッときて店でへたばっておられた。
今思うと随分ひどいことを言っていたのだが、
お婆さんの要らないものは次に欲しい人が少ないことは確かだし、
私は古物市場で3000円でしか売れない古着なら2000円で買えば、
自分は結果仕事を果たしたのだからそれで良い思い、若い時はそれで満足だった。

同じ商売でも京都の質屋が昔よくやったような、
「お婆さん重おしたやろ。着物はこのごろ着る人が少のおて難しいのどす。
そやけど気張って買わしてもらいます。おおきに、気つけてお帰りやすな」
とすると同じものを1000円でしか買わなくても、
「質屋はんてええ人やわぁ」と、確かにお婆さんは気分良く帰られる。
しかしそんな商売の仕方はまやかしだと、単純に若い時は考えていた。

質屋は理ばかりでは駄目だし、情ばかりではもちろん駄目だと言われる。
理で進むか、それとも情を前へ出すか、という問題も以前からある。
上の二つの例は、質屋の金利問題と関連して理と情のことを思い、
若い時のことを思い出して書いてみた。
情理を尽くす、情理を兼ね備える、情と理のバランスを良くする。
それは今も私に難しいが。

03.05.11 記

       すぐに入れたがる

その若い女の子は、店のガレージに勢いよく車で乗り付け、
敷きつめた小石をブーツの踵で蹴飛ばしながら入ってきた。
その後ろを、いかにもヒモといった様子の貧相な男がついてきた。
女の子はロレックスの時計をはずし、
男が差し出すヴィトンのバッグを受け取り、
「これも入れるのか。買うたとこやないか。お前はすぐに入れたがるな」。

連れの男は上目使いにこちらを見ているし、
私はもう笑ってなしょうがない。
取引が終わると女の子は来たときと同じように勢いよく帰って行った。
静かな店をまるで嵐が通り抜けたようだった。
しかし不思議に悪い気はしなかった。

それでどうしてこの時、悪い気がしなかったのか、
お前はすぐに入れたがる、という言葉を思いだす度に思った。
それはおそらくこの女の子に茶目っ気があって、
少し荒れているがまだ遊び心を失っていなかったからだと思う。
それと関連して洋画のこんな場面を思いだした。
映画の題名は思い出せないが、格式のあるホテルのロビーで、
いかにも上流階級と思われる正装した夫婦がエレベータに乗ると、
後へラフな格好の若いカップルが乗ってきて、女が男にこんな話をする。
「先に金額を決めておきたいの。後でもめるのいやだから」
エレベータの中で奥さんが、まぁー、という顔をして主人を見ると、
ご主人がいかにも居心地の悪そうな顔をするのだが、
この若い女は娼婦というのでなく、
エレベーターの中でちょっと夫婦を困らす会話をしてデートを楽しんでいるのである。
しかしここで、この主人が洒落た切り返しをしたらこの場面どうなっただろう。
映画の主役が代わったかも知れない。それで私もこれから店で、すぐに入れたがる、
というような話をして当方を困らせるお客様に、
ただ笑ってなしょうがないという態度でなく、洒落た切り返しがしたいものだとおもうのである。

03.03.16 記

       またご縁がありましたら

少し前までインターネットで質流れ品の販売をしていた。
注文があり商品を送ると「届きました、ありがとうございます」と、
受け取りのメールが来る。
そのメールの最後に「またご縁がありましたら」とよく書いてあった。
先方は文面からも購入商品からも若い女の子のように思われるが、
見ず知らずの若い女の子から・・またご縁がありましたら・・とは、
何かおかしな気がした。
これではまるで行きずりにデートした別れの言葉のようだ。
「素敵でしたわ。またご縁がありましたら」。
これは考えすぎかな。だけど何か変だ。
ネットで買い物をしただけなのだから、
「良い品物ありがとう。また欲しい物があればメールします」でいいと思うが。

どうしてこのように・・またご縁がありましたら・・と書くのかと思っていたら、
ヤフーのオークションで落札者が出品者を評価し、
そのコメントに下記のように書く影響のようだ。

評価:  非常に良い 出品者です。
      落札者は「 非常に良い 」と出品者を評価しました。
コメント: 大変素敵なお品物でした。素晴らしい出品者様です。
      又ご縁があります事を願っております。

最近インターネットで質流れ品を販売する質店が多くなった。
どのホームページも良品の掲載で人気が高い。
インターネットの利用者は多く、
しかも質屋として大事にしなくてはならない若者達が特に多い。
だから質屋の組合としてもインターネットと無関係で行くわけにはいかないだろう。
それで組合でも近々に質屋サイトを立ち上げ、質流れ品の販売をする予定だ。
しかし一面、先ほどの・・またご縁がありましたら・・のように、
インターネットの対応はこれまでの質屋の感覚と違う点がある。
そうした違いはネットの世界特有のこととは言え、
「言葉は存在の棲みか」とも言うし。(ちょっと大げさかな)
サイトの人気に合わせていると自然と質屋自身が変わっていく。

もちろん質屋も変わっていく部分が必要なことは確かだとおもう。
それが質屋に対するお客様の意識を変える一番の方法だから。
これまでのお客様は、できれば質屋とは・・ご縁・・がない方がいいと思っていただろう。
何も好きこのんで質屋へ行くわけではない、しかたがないから行くのだと。
だから入ってきたお客様に「まいど」と挨拶すると、
質屋に「まいど」と言われるとかなわんなと言われた。
それがインターネットでは先ほどのように、
お客様の方から・・またのご縁・・を言うのだから、
ここはぜひ質屋としても・・またご縁がありますよう・・に答えるべきだろう。
ただそうしたことがどうしても出来ない質屋がある。
若い子相手に俺はそんな柄やないし、したくもないと。
しかし質屋の中にも、そんなの得意だし、したいという人もいるはずだ。
だからここは得意でしたい人が頑張られたらいいと思う。
・・またご縁がありましたら・・。
これは質屋、開闢以来の慶事だから。

02.12.25 記
        携帯的多弁

来店の度に同じことを聞かれるお客様がある。
「利息を一ヶ月分払うと来月まで流れないんですね。
それで来月受け出しする時は幾らですか」
次に来られた時も同じことを聞かれる。
このお客様からは数口お預かりしているから毎月数回来られる。
その度に同じことを質問され、また同じように答えている。
取引の仕組みは単純でそう難しいことだと思えないのに、
あまりに度々聞かれるものだからある時、
何回同じことを聞いたら気が済むのですかと言った。
そしたら、「聞いたらいかんのですか」と言われる。
それでは前回聞いて理解したことが無駄じゃないですかというと、
「いや、その都度聞くのが私の性格です」と。
そこで私も負けずに言い返してしまった。
お客さんは駅でキップ買うのに券売機にお金入れてボタン押すでしょう。
一度学習したら、その都度駅員さんに聞きますか。
「・・それは・・私を馬鹿にしている」。
ここからお客さんが怒りだした。
確かに私もまずい例を言ったものだ。

質のお客様にはお預かり時に流質期限、利息、延期、減額、受け出し、
などのことを説明している。
しかしこのお客様が来店の度に質問されるのは、
そうした取引内容が解らないからでも念を押すためでもないと思う。
絶えず質問をしていないと落ち着かないというか、
ちょうど一日中携帯でメールをうっている人と同じ心理によるものだと思う。

当店は、質預かり・買い取り・販売をお客様とカウンターひとつを挟んでしている。
この間を質やったら何ぼや、売りやったら何ぼや、流れ買うのは何ぼやと、
質と買いと売りの全ての値段を聞きたおすお客様がある。
また今預かったものについてお金を渡して質札の記載内容を説明している最中に、
後ろの棚のヴィトン見せて、カウウターの下の財布はどんなんや、
ウインドーの時計はあれだけかと、話が次々に飛ぶお客様がある。
確かに知りたいから質問されているのだけれど、
携帯やインターネットのない時代にも人は生活できていたことを考えると、
特に聞かなくてもそれほど困らないことまで最近質問するようになったと思う。
しかし質屋としては質問されると取引に関わることだから、
いいかげんな返事をするわけにはいかない。
その都度正確に答えなくてはならない。
だからこういうお客さんには本当に疲れる。
この歳でマクドナルドの女の子みたいな接客はでけへん。

02.11.10 記
        ダイヤモンドが柔らかくなったわけではないけれど

ダイヤモンドを切ってしまった。
質流れのダイヤモンドの鑑定書が古い基準のものだから、
新しい鑑定書を作るのにルース(裸石)にしょうと指輪の枠を切っていたら、
気がついたら鉄ノコの刃がプラチナの縁を越えてダイヤモンドに垂直に入っていた。
女性用の立爪指輪のダイヤモンドは簡単な工具で外せるが、
男性用の埋込型(ふせ縁)のものはプラチナが硬くて難しく、
私は枠ごと鉄ノコで切って外している。
もちろん専門の錺職に頼めばいいのだが、
京都や大阪の中心部とちがい枚方では専門の錺職店がない。
それで都心まで持って行くのが面倒だから万力に固定して自分で外している。
それも専用の糸ノコを買えばいいのだが、
あり合わせのハンドグリップ式の鉄パイプでも切れるノコを使っていた。
ダイヤモンドはどんな物よりも硬いから、
鉄ノコの刃をはね返して傷付かないだろうと思っていたが、
今回、ダイヤモンドまで切り込んでしまった。
改めて鉄ノコの側面を見ると、DIAMOND HACK SAW BLADE と書いてある。
切れたダイヤモンドは小さいとは言え、旧の鑑定書では、F VVS-2 GOOD  だった。

また先日はあろうことか、
ルイ・ヴィトンのコピーバッグを古物市場へ出品してしまった。
市場には品物を預けただけで当日は行かない時がある。
そのような日は夜に売上げ伝票がファックスで入ってくるが、
入ってきたファックスと控えの用紙を合わせていると、
出品のうち (ヴィトンモノグラム ヴァヴァンGM 新品同様) 1点だけが消えない。
市場へ電話すると、
「買い手さんがコピーだと言うので競りに掛けませんでした」とのこと。
そんな筈はないと思っていたが、市場から返ってきたバッグは確かにコピー品だった。
このバッグはデザインがシンプルだから立ち姿がよい。
新品同様のもので一見したところ問題なく見える。
しかしよく見ると直ぐに「ダメ」と解った程度のものだ。
どうしてこんな間違いがおこったのか考えてみると、
おそらく店頭での取引時には、
定価や掛け率に気をとられて品物をよく見ていなかった。
市場への出品時には、品物が新しいので荷造り中の汚れた手で触りたくなかった。
それで保管していた紙袋から十分に出さずに出品札を付けてしまった。
そうしたことが重なったのではないかと思う。
結局、一度もこの品物を手に取ってしっかり見ていなかったのだと思う。
そして結果、当店の出品札を付けたコピーのバッグが、
同業者の集まる古物市場の棚に置かれて、
見せしめのためだろうか一日中晒し首になっていた。

物に対する極度な関心。質屋の場合それは欲であるというより畏怖にちかい。
高価な物に対するあの尊敬感。手に取った時のあのドキドキ感。
そうした感情が、俺もこの品物を扱えるところまで来たという満足感になる。
この質店を大きくするために不可欠な、
質屋を作る基礎的な感情がこのところ私の中で急速に衰えていく。
だからダイヤモンドを切ってしまったり、コピー品を通してしまったりするのだろう。
ダイヤモンドが柔らかくなったわけではない。コピー品がより精巧になったからでもない。
きっと私が変わっていってるのだ。

02.08.23 記
        グレーゾーンについての9条的取り組みと将軍政治の危うさ

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われわれの安全と生存を保持しょうと決意した。」
質屋金利のグレーゾーンが話題になる度に、この憲法の前文、そして9条の「国の交戦権は、これを認めない」を思い出す。

質屋にとって利息制限法と出資法の定める上限金利の差の部分、いわゆるグレーゾーンの問題にどう対応するか以前から厄介な問題である。法律では任意に支払われた金利は有効であるとあるが、昭和39年の最高裁大法廷の判断はそれを覆すものであった。これは当時、町金融が相当ひどい取り立てをした、その非常に特殊な事例に対しての司法の判断であると聞いたが、しかしその後、金融に関係する者はこの判例に強い影響を受けてきた。

質屋は平成10年の大阪地裁の質屋側勝訴の判決まで、このことについてお客様の「公正と信義に信頼して」、「交戦」を避け、あくまでも商人とお客様との関係に努めてきた。その姿勢によって質屋が「社会において、名誉ある地位を占め」ると考え、その方向で「われわれの安全と生存を保持しようと決意した」からだろう。

グレーゾーンの問題から、「諸国民の公正と信義に信頼して」、「国の交戦権は、これを認めない」を想うのは、憲法の成立が、昔、軍部が暴走して戦争を起こし他国に随分ひどいことをした、そうした反省の上に戦後アメリカによって制定されたこと。そしてその後日本が平和と繁栄を築いた経緯と、グレーゾーンの扱いについての最高裁の判断、またその後、質屋がとってきたこの問題にたいする9条的な取り組みと、今日の質屋業の安定の軌跡が重なるからである。

しかし今日、質屋の仕事がこれまでの質預かりから品物の売り買いへと傾斜していく業界内に、ちょうどむかし軍部が台頭してシビリアンコントロールがきかなくなり戦争へ進んだような、グレーゾーンの問題に対してこれまでと違う動きがあるように思えてならない。

これについて考える参考に京都の質屋業界をふり返ってみよう。
質屋専業である前の理事長さんは全国組織において質屋の基礎調査、法令研究、公聴会への出席などの仕事を30数年に亘ってされた。その業績は長く質屋業界に影響すると思われるが、そうした仕事は性格上、必ずしも普通の質屋が日ごろ関心のある事柄ではなかった。だからどうしても一般の質屋からすると、雲の上のこと、やんごとなきお方のまつりごと、そうした面があった。それで今仮に前理事長さんを行為の性格上、天皇さんとしょう。対して質屋が毎日関心のあること、質の預かり値は間違っていないだろうか、古物市場で損をしないだろうか、そうした今日の商売に直接影響する、今関心のあることがらに対応する人、だから今仮にこの相場に強い古物屋さん的な質屋を、武家の棟梁の意味で将軍としょう。そして天皇さんがこの将軍に征夷大将軍の位をあたえる。構図として京都の質屋業界はこのように天皇と将軍という二層構造でこれまで来たと考えられる。そして今度、天皇さんが退位された。そうすると、ここで天皇政治から武家政治へと変わったことになる。

こうした変化は今後、古物屋さん的な質屋が台頭してくる中でどの組合でも起こり得ることだと思われる。この体制移行の問題点の一つは、天皇は生まれながらにして天皇だが、将軍は戦うからこそ将軍であると考えてしまうところにある。ここで言う将軍とは一種の人気稼業である。だから9条を改正しなくて国民に国を守る気概が生まれるかと演説すれば、一部の人に人気が出るように、質屋がグレーゾーンの問題に対して戦わないようでいて、息子が自分の仕事に情熱が持てるかと言えば、この理事長さんは組合員にきっと人気が出るだろう。もちろん将軍はそれでいい、軍人にとって戦いとは自己実現なのだから。しかし昔、国民は赤紙一枚でどうなったのか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

グレーゾーンの問題について書くのに、平成10年の「大阪地裁で、質屋の主張が通る」を報ずる質屋業報を読み返してみた。この筆者は最後に、
「時代が移り、社会が変われば条文解釈も動くのである。(この質屋側勝訴判決で質屋が)絶対安心で大丈夫とはだれも言いきれない」、そしてこれからも「社会に必要とされ、喜ばれる質屋であり続けること」、その姿勢を「大切に守って行きたい」と書いておられる。

質屋にとって本当に一番大事なものは何だろうと考えることがある。そうすると結局は質屋とは何者かという、その思想(姿勢)にいきあたる。もう20年も前から業界では新しい時代にふさわしい新しい質屋の思想を、と言われてきた。しかし未だに時代を切り開く本格的な考えは出ていない。これだけ激しく動く時代にどうして出てこないのかと思っていたら、最近読んだ新聞の書評欄に私なりにその答えがあった。その一部を書いてみる。

8月4日 日経新聞書評欄
 「新しい市場社会」の構想   佐伯啓思・松原隆一郎 著
           評者 山田鋭夫 氏  <社会に資本主義の調整役求める>

「構造改革か景気回復か・・・。グローバリゼーションと長期不況のもと、経済論議は随分と積み上げられたが日本経済の将来像はいっこうに見えてこない。そんななか本書は、経済から出発しつつも、しかし経済の奧にあるものへと降り立っていく。
奧にあるものとは「社会」である。だから本書は「市場経済」でなく「市場社会」を問う。(略)従来の論議は、市場や経済があたかも自己均衡的な完結的システムであるかのような前提のもとでなされるか、あるいはせいぜい市場に対して政府の役割を対置するかであった。そうであるかぎり「市場経済」論でしかない。そうではなく「市場」は本来「社会」のうちに埋め込まれ、それと絡み合い、そこから切り離せない。
当たり前とも言うべきこの視点に立つ「市場社会」論こそ、いま必要とされている。日本経済は根源的に市場と社会の分裂を、市場の独走による社会の窒息を、病んでいるのではないか。
(略)市場経済と呼ぼうと、グローバリズムと呼ぼうと、「資本主義」とは限りない変革の力である。しかし、それ自身のうちにはこの変革を調整する原理をもたない。調整の原理は「社会」のうちにしかない。−−経済論議の原点はこの認識にある。」

質屋自身、これまで新しい時代の思想(質屋像)を構想するのに、金利や利便性といった「市場経済」の中に探しすぎるきらいがありはしなかったか。しかし実は既に昭和50年以降の質屋はこの「市場社会」の中にこそあったのではないか。お金を貸すのに品物を預かる。預かった品物には当然保管コストが掛かる。その宿命から逃れられない質屋が、そもそも無担保金融や事業資金を融資する大口金融と同じ利息制限法の「市場経済」の土俵で戦えるわけがない。お金の貸借は物の値打ちの範囲、流せば一切チャラ。この簡潔で原始的な金融システムが、社会にどの程度必要かは本来「市場社会」の場で論議されるべきではないだろうか。

上記の市場社会論が出てきたのは、これまでの市場競争や価格破壊の方向だけでは、結果、社会は豊かにならないし人は幸せになれないという、現実の反省からだろう。これまでは、例えばある産業に高コストの構造があり、高価なサービスしか提供出来なければ、消費者はそのサービスを利用しない、買わない、そういう形で切り捨てていく、それを是とする社会であった。同じ論法で質屋の金利を言えば、品物を預からなくては金が貸せないのは質屋の事情による。預かった品物に保管コストが掛かるなら、それは質屋が営業上解決すべき問題で、それを利用者に質料として転嫁するのはおかしいということになる。しかし基本システムが保管コストの掛かる小口金融の業態を、その形で切り捨てて行って、結果質屋が無くなって、それではたして社会として上質といえるのかという問題がある。

02.03.10 記
        橋本質店の長き苦悩

隣国とのつき合いは難しいものである。
大国と小国の間において、
一方が軍事大国であれば隣の小国が自国に脅威を感じていることは当然察しがつく。
しかし平和な経済大国にして、
隣の小国の中に自国に脅威を感ずる者がいるとは普通考えつかない。
往々にして大国と小国の間にはこうした意識差がある。
善隣外交の一歩とは、先ずその意識の差を埋めることではないだろうか。

京都は地理的にいうと、三方を山に囲まれ、南がひらけ、そこを淀川が大阪へ流れて行く。
この淀川の流れのように、生産品が直接大阪という大きな市場へ流れて行くことは、
京都の問屋にとって昔からの脅威である。
質屋業界について言うと、京都の住人が大阪の質屋を利用することや、
また大阪組合のバザールへ質流れ品を買いに行くことは、
京都の質屋にとってそれほど関心事ではない。
それより昔から京都側にある関心事は、
京都の質流れ品が大阪の古物市場へ流れて行かないだろうかということであった。

京都の質流れ品が集まる古物市場は3軒ある。
どの市場でも一店の古物問屋さんがその多くを買われる。
それは30数年前に私が初めて京都の古物市場へ行ったときもそうだった。
当時は大阪から来ておられた古物問屋さんの撫で買いだった。
いつの時代もこうなのは京都の質屋業界の規模が、
ひとつの古物屋さんがピタッと押さえるには、ちょうどいい大きさなのによる。
そして目利き、販売力、フットワークを兼ねそなえた、
その古物問屋さんの手の中で、これまで京都の質屋世界が形成されてきた面がある。

昔から質屋の若者は修業をするのに古物市場や古物問屋さんへ行くことが多い。
それは質屋へ勉強に行くより、
古物屋さんへ行く方が扱う物が多く相場を早く憶えられるからである。
また古物屋さんからすると、
質屋の若者を預かることによって自然とその店の流れ品を扱えることになる。
この質屋と古物屋さんの昔からある一種の教育産業の形態を、
京都の組合広報部という組織を受け皿にして丸ごと構築したのである。

そうすると組合員である親にすると、
京都府民が子供を府立高校へ行かすようなものだから行かせやすい。
また若者にすると店の仕事を手伝いながら組合という外の世界になじむ学習は、
修業のように苦労がなく今風で軽くて優しい。
そうして京都の質屋の若者ほとんどが広報部員になった。
私はその当時そばで見ていて、この若者達を広報部員にすることと、
これまでの広報部の仕事である業報誌の発行と何の関係があるのかと思っていた。
これは後日考えると、
ちょうど毛沢東が文化大革命を起こしたとき、古くからの同志の誰だったかが、
この紅衛兵の騒ぎと革命とが何の関係があるのかと思っていたという話に似ている。

京都の質屋組合、20世紀最後の20年を特徴づけるとすれば、
それは組合の質屋学園化の方向であった。
この組み方が強い理由は、質屋に限ったことではないが、
親にとって子供を手元に置きながらその成長を見まもる日々の仕事の中に、
夫婦でつくる小さな商店の楽しみの一つの形があるからであり、
後継者の若者という雛鳥を囲う者には金の卵が手に入るという、
真理があるからである。

京都の質屋について具体的に考えてみると、
若者がいる家庭でおよそ次のような展開があったのではないかと思われる。
後継者の若者という雛鳥には母鳥がいる。
この母鳥がある日、父鳥、つまり質屋である主人に、
「あんたにこれから先、何がある。何もあらへんやないか。
ただ息子に店継がして、一人前の商売人にすることだけやないか。
そのためなら、あんたは、焼き鳥にでも、かしわにでもなりなはれ!」
「・・お前そんな・・あわぁあわぁ・・・」
まるで大助・花子のような一面が、
質屋の大将、組合の理事、という外の顔とは別に、家の内にはある。
この母鳥を中心にした店づくりに、ほのぼのとした家庭の温もりがあり、
その幸せの中で、例えば父鳥は昔の浮気をゆるしてもらえる ??

当店は親の時代には京都府八幡市の質屋であった。
昭和の終わりに子が府の境を越えて隣の大阪府枚方市へ店を開いた。
以来、大阪質屋組合員であり、また前どおり京都質屋組合員でもある。
以前から京都の組合で業報誌の編集をしていた関係から、
その後も京都の組合員として全国的な集まりに出ることがあった。
そこで私にとって大阪の人達とのつきあいに難しい問題があった。
京都の質屋が大阪の質屋とつき合うと大阪の古物市場や相場の話が出て、
結果、京都の質流れ品が大阪の古物市場へ流れていく可能性がある。
しかし淀川の流れが決して大阪湾から琵琶湖へ流れないように、
逆に、大阪の質屋が流れ品を持って京都の古物市場へ売りに来ることは起こりえない。
このところに語られることのない京都の質屋世界を形成する根幹を揺るがすことがらがある。
だから京都は大阪さんと疎遠にということではないが、
自然と大阪の組合の人達とのつき合いを選択しないふうが、昔はあった。
しかしそのことを大阪の組合の人達はあまり意識されていなかったかもしれない。
京都と大阪の真ん中の地で、両方の組合員である私は、ここでどういう顔をしてたらいいのかな、と。

02.01.03 記
        6 番街

「知る → 考える → 伝える」という人の行為は、
次に知った人がそれを「やってみる」につながります。
インターネットの開放性は、
これまで社会を発展させてきたこの基本的な回路を、
「知る → 伝える」ことについて最も効率良く設計します。
しかしこれまでは、知って考えて、それを次に伝えるには、
誰にという限定が、あるいはおよそこの範囲の人にという、
ばく然とした予想も含め対象というものがありました。
新聞や雑誌であれば購読者、組合誌であれば組合員にというようにです。
そしてそのことは自然と、新聞であれば社論を統一するとか、
組合誌であれば組合員の知る権利と和を考慮しながら表現をセーブするとか、
たえず編集者に掲載内容の判断基準をしいる作用をしてきました。
しかしインターネット発信の軽便さと、対象を括れないことからくる無責任さは、
本来、留めおかなければいけないものをも、つい出してしまう危険を常にもちます。
その懸念がこの「質屋の風景」の行きづまった原因の一つです。

質屋業界には組合業報という、いわば正史があります。
これに対して外伝というと大げさになりますが、いわば私家版といったものをつくれないかと、
質屋業を長くした者として何か残せないかと考えたのが、「質屋の風景」を始めた理由です。
しかし外伝は正史からこぼれたものですが、そこにはこぼれた理由があるわけですし、
私家版といっても表現するには種々の問題があります。
ですから例えば7番街の他に番外編を作り、表面に出ないページに残す方法があります。
しかし同時に現役の質屋として ”質屋の今” にアプローチしたい気持ちもあります。
ここが難しいところです。
それで7番街の手前に6番街をつくり、ひとまず下書きをそこに載せ、
業界関係者、有識者のご意見を参考にして、あるものは加筆訂正して7番街に引き上げ、
「質屋の風景」として掲載することにしました。

01.05.17 記
        質屋組合業報誌

このホームページを作って6年になります。今までにいろいろな質問のメールが来ました。なかに数回、「大学で金融史を専攻している。質屋さんについて知りたいことがあるので幾つかの質問に答えて欲しい」という学生さんからのものがありました。しかし「公益質屋との競合の歴史」など、私に解らないものもあります。それで、質屋を研究するには組合業報誌のバックナンバーが良い資料になる、非売品で一般には出ていないが東京や大阪の質屋組合にあるから、「研究のため」と組合事務所で言われたら、閲覧できるのではないかと案内しました。

質屋業報誌は現在、東京の組合が600号、大阪の組合が450号、京都の組合が90号など、各組合の創設時からの歴史を刻んでいます。B5版、20〜100ページ、月刊や季刊です。書籍としては質屋の素人編集ですから必ずしも良い出来と言えないかも知れませんが、その時代の質屋が考え苦労した記録です。以前この業報の1冊をある先生に読んでいただいたら、「このバックナンバーは質屋はんの出てくる小説書く下調べにいいな」といわれました。例えば司馬遼太郎が歴史小説を書くのにその時代の片隅の資料まで神田の古本屋に集めさせて片っ端から読んだようにです。このバックナンバーが古本屋さんで幾らの値がつくか試したことはありませんが質屋を知る資料としては一級品だとおもいます。

業報誌の発行は質屋組合の広報部が担当します。組合の機構は各組合によって多少違いますがおおよそ、理事長以下、副理事長、理事の組合議決および執行機関と、その下に広報部、青年部、厚生部、事業部、総務部などがあります。

私は以前、京都の質屋組合の広報部に25年ほどいましたが、入った当時(昭和47年頃)私と同年輩の人が1人、他に30才代の部員が4人の合計6人でした。30代の先輩は京都の大学を出て親の店を継いだ方で、商売人にしては駆け引きのしない真面目なタイプでした。月に一度組合事務所で編集者会議がありましたが、業報発行の打ち合わせより雑談の方が多かったです。例えば、質の利息(質料)は何を基準に決められるべきかという議論がありました。
考えとして、
利息を安くするとお客様が増える。結果増収になる。
いや利息を安くしてもお客様は増えない。すると減収になる。
ここまでは普通の議論ですが、次に、
利息を安くすると経営の成り立たない店が出る。
すると廃業する店が増えて、店舗数が減少する。
自然界における野生生物に見られるように、
種は個体数がある一線を越えて減少すると、絶滅が避けられない。
確かトカラ列島の野生馬が例でしたか、
つまり質屋も店舗数が激減すると、あとはもう一気に絶滅へと向かう、と。
だから質屋が業種として生存するためにはある軒数が必要である。
ではその限界店舗数の存続のために確保せらるべき利息とは。
ここで茶々が入る。
利息を考えるのにケインズでもマルクスでもなく、
なんでここでダーヴィン(進化論)が出てきますねん。
こんな調子ですから編集会議はいっこう進まず、
結局、原稿のことはその時の広報部長が苦労されていました。

業報の発行で一番難しいことは原稿を書くことです。仮に座談会を開いて自由に話し合ってもらっても、2時間の座談会のテープを原稿に起こすには、もう一度聞くだけで2時間掛かります。そして文章にする、文章を書くということの難しい点は他のことをしながら出来ないことです。毎日の質屋の仕事ですと、例えば帳面を書くとか、質物を整理するとかは、途中でお客様が来られたら中断して、帰られたら先ほどの続きから始められます。しかし原稿はいったん中断すると、すぐに元へ戻れない、なかなか以前のペースがつかめません。はたしてこれで文章として成り立っているのか、意味は通じているのか、繋がっているのか解らなくなります。それで昼間の仕事中は無理ですからどうしても深夜になります。締め切りが迫り連夜になると次の日の商売に差し障りが出ます。朝お客さんが来られると、ボーッとしていて、例えばダイヤの色が解らない、計算が出来ない、相場が浮かんでこない、帰られてから、しまった、えらい損やと。

先輩の話では、こういうことが続くと、奥さんが「あんたはアホや! 店のために少しもならへんのに」、とかなんとか言い出すらしいです。それでストレスがたまる。しかしよく考えてみると確かにその通りや、広報部長として理事会には出んならん、全国的な集まりには顔出さんならん、マイナスばっかしやないか。大きな店の大将のように番頭が居るわけでもなし、俺はこんなことやっている身分やないねん。確かに当時の部長さんはそのように思われたこともあったんだろう、3年ほどで次々と部長の職を交替していかれた。

私が見ていた昭和57年ごろまでの組合では、広報部員であることが自店の商売のマイナスになることはあっても、プラスになることはありませんでした。当時、京都の業界でトップを走っているような人は広報部など見向きもしませんでした。ですから逆に広報部には何か一種、美しい日本の質屋の私 ?みたいなところがありました。その後、我々の仕事にとって広報活動がより重要になるに連れ、広報部にマルチ的な能力が求められていきました。そのあたりから「広報部」そのものが質的に変わって行ったように思います。

以前の業報誌は組合執行部の機関誌というよりはもう少し自由で、多少いろいろな考え方も載っていて、質屋のことを広く報ずるシンボリックなものであったように思います。ですから質屋組合を社会という海を行く船団の旗艦に例え、この業報誌をそのマストに翻る一丈の旗と位置づけていた時代があります。それで、組合本部(旗艦)・業報(旗)・組合員(船)の構図として解りやすかったわけです。また最近はあまり聞きませんが、以前は東京の質屋業報を業界の朝日新聞といい、大阪の質屋業報を日経新聞といいました。それは東京の業報が中央にあって権威がある、また論調がリベラルなのに対し、大阪の業報は商都大阪だけに商売に密着した役に立つ情報が多い、質屋の本音が出ていて面白い、そうした内容によったのだと思います。私のいた京都組合の業報は、当時先輩が言うには(京都では朝日や日経より京都新聞が一番読まれていることに例えて)、京都の業報も質屋業界では京都新聞と同じで地方紙である、しかし地方紙には地方紙の行き方がある。このようになかなか格好いいことを言いました。しかし東京や大阪の質屋業報を気にしていることは確かでした。いつも編集会議のテーブルには東京や大阪の業報があったのですから。

これはテレビで全国都道府県駅伝競走を見ていて思ったことですが、この駅伝ランナーの気持ちと地方の業報編集者の気分とは似たものがあります。地方は大都市に比べて恵まれない、テレビの全国放送に出るのはこんな時しかない、それで頑張る、そして日頃から練習する、そうしたことが長距離のレベルを全国的に押し上げる。こうした構図が質屋の業報誌についても言えるのではないかと。地方の質屋がその組合へ上がって業報の編集をすることは苦労があります。それを支えるものは前を行く東京や大阪の、具体的には質屋業報の背中でしょう。東京の質屋は商売の上でやはり有利です。例えば東京の地価は高い。一般に不動産の価格とその上で質屋が商える動産の価格は比例します。富のレベルを映しますから。東京は扱い額が高い分、収入が多い。地方は扱い額が低い分、収入が少ない。しかし使う電気代は同じ、食う米の値段は一緒や。もちろんそんなことはどうしょうもないことです。しかし同じ質屋なのに腹立つなとか。それで何くそと、また参考に東京や大阪業報を読む。だから案外、東京や大阪の業報の一番の読者は他の組合の業報の編集者だったかもしれない。トヨタの車を一番よく知っているのは日産の技術者だと言うようにです。そうした目標に対する頑張りが質屋のレベルを全国的に押し上げてきた。これまで組合の業報にはそうした面もあったのではないでしょうか。

素人が業報誌を発行することは本当に苦労があります。ですからこれほど苦労して出している業報誌を果たして組合員はどれだけ読んでくれているだろうか、あるいは実際に組合員の為になっているのだろうか、そうした思いが編集者には絶えずありました。また記事が誤解を生まないだろうか、という懸念もありました。組合という小さな世界ですから何かの意見を書くことは誰かを非難することになりかねません。また何度も書き直していると、先入観が出来上がってしまって、その文章が他の意味にも取れるようになっているのが解らなくなります。校正でも気付かず刷り上がってから、まずい、しまったと。あるいは業報を組合員以外の誰かが読んでいて質屋の不利益になることはないか、という懸念もありました。そうしたことを考えると一層何も書けなくなったことがありました。

01.03.10 記
       続・質屋の起源

前項で質屋の起源について書こうと思いましたのは1月15日の日経新聞のコラムを読んだのがきっかけでした。
「質屋の起源は、我が国初の法典である「大宝令」(701年)の中に求められる。金利は・・質物は・・など現代の質屋営業の基礎になる規定が設けられている。貧民救済が質制度の原点で、つい最近まで庶民金融の代表業種だった・・」
このコラムでは質屋の起源を奈良時代としています。しかし奈良時代ではまだ商業経済が未成熟で質屋営業として成り立っておらず、それで一般にこれまで我が国で商業が盛んになった鎌倉時代を「質屋の起源」としてきましたと前項で書きました。そして当初私は、これまでの鎌倉起源説から奈良起源説へ変わることで、現在の質屋が商売上失うものはあっても得るものはないと思っていました。しかしその後、質屋とは何かと考える上で実はこのコラムの筆者は奈良を起源とするところに、もっと大きな質制度の原点といったものを見ておられたのではないかと考えるようになりました。

物を担保に取って金を貸す。この行為の内には本来人の世の負の部分があります。もちろん法も経済も一面としては負を見すえ、負を正に変えるシステムです。質屋もまたそのシステムの一つですが、庶民金融の貸借の間にはどうしても負が色濃く表れます。今は「質屋営業法」ですが昔は「質屋取締法」でした。金融システムの定理である「人も物も変わるものだ」とは、金を貸す側もまた変わるものだの意味にもなります。昔は貸すときは揉み手で、後はひっくり返ってわずかの貸し金の形に値打ち物を取り上げてしまうことがあったかも知れません。鎌倉・室町時代に商業が盛んになったということはその時代に人々の欲望がそれだけ強くなったということです。そして普通は強い者が弱い者に金を貸すのですから、そうしたことに対して時の幕府が法の網をかぶせる必要が出てきた。行政の必要からその業を何屋と規定して取り締まったことは十分考えられます。その鎌倉時代を質屋の起源としますと、質屋にとっては取り締まりの必要のあった人達が御先祖様ですから、これは相当ひどい出発点になります。

これが奈良起源説をとると随分変わります。奈良時代に国の礎を築こうと遣唐使が命がけの航海の末に大陸から持ち帰った当時最先端の社会制度(民の救済システム)、それが質業であった。その後、奈良の寺で日本の風土に合うようにシステム改良され時代が下るにつれて全国に広まった。こうなりますと「質屋」の出発点が随分かっこう良くなります。仏のふところで育まれたわけですから、負ではなく正と言いますか、善なるものの内で産声を上げたことになりますから、出発点としては誠に結構です。この説は質屋の若者の士気にいいですし、「質屋」の名前のブランド戦略から言ってもこの奈良説の方が有利です。

起源をどこに求めるかは実は「質屋とは何か」を自身に問うことになります。ですから質屋個々人の問題ですが、いま仮にこの「奈良か鎌倉か」の起源論を質業がはらむ「正と負」の度合いを計る試験紙に使えたなら、起源論争もまた別に意味あることだと思われます。それで質屋の起源を考えるのに縁起絵巻といったものを考えるのも方法だと思います。「信貴山縁起絵巻」のようなストーリー性のある絵巻物(漫画でもいいのですが)のことです。もし同じように「質屋縁起絵巻」というものを自身が描くとしたら絵巻物として一番おもしろい時代設定をいつにするか、物語の筋をどうするかを考えるのも方法だと思います。

01.01.20 記
        質屋の起源

日本で質屋が興った時代については産業や商業が盛んになった鎌倉・室町時代とする考えと、奈良時代に遣唐使が伝えたとする考えとがある。奈良時代とする考えでは留学僧が唐から質の仕組みを持ち帰り、最初は奈良の寺でおこなわれていたものが時代が下るにつれて広まったとする。その奈良時代において、質屋の流質販売権と、質流れ品の流通市場のことはどうだったのだろうか。

本来、質屋のシステムがすぐれているのは、3ヶ月という比較的短い期間で受け出し、更新、流質と、その都度いったん貸借をチャラにして変化に対応して先へ進んでいけることにある。流質期限を過ぎると質置主(お客様)は権利を失い、質屋は質流れにして売却処分ができる。これは銀行が不良債権を流すに流せない、売るに売れない、金がまわらない、だから貸し渋りをする。結果資金繰りがつかなくなった企業が倒産する。こうした銀行業務の悪循環に対して、質屋は流質期限の過ぎた物で損をするのは質屋の失敗。損は損で仕方がない。流して売って損して、忘れて先へいく。だから次に貸し渋りをしない。結果お客様に迷惑を掛けないことになる。本来金融システムは「この世に不変なものはない、人も物も変わりうるものだ」を前提にするといわれるが、この公理に速やかに対応できる流質処分権と、古物の流通市場の成熟は「質屋」の成立条件であると考えられる。

10年ほど前、バブル崩壊後に入質のラッシュが起こった。バブルがはじけた後、最初に入質に来られたのが羽振りの良いときに高級時計などを買っていた自営業者。次に株でもうけてブランド品などを購入していた主婦。他にも高額品を入質されるお客様が急に多くなった。そして流質品も多くなり売却先の古物の競り市が当時出来高を更新しつづけた。古物市場は持ちこたえられるだろうか、中古相場は暴落しないだろうか、と危ぶむ声もあったが、少し下げたとはいえ相変わらず買い手はあった。それは経済がある日をもって一律に変わるわけではないから、バブル崩壊後の景気の収束局面においても、バブル時に購入された高価な時計や宝飾品を買う消費者はまだあったわけである。そしてもちろん質流れ品を新しい消費者に提供する流通システムが既に出来上がっていたこともある。動産について質屋が果たしたこの軟着陸機能を、もし銀行が不動産についてできたなら、日本経済に「失われた10年」はなかったのではと思われる。

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あれはもうどれぐらい昔のことになるだろう。
大和盆地の小さな村で秋のとりいれが終わり柿が熟すころ、
鍛冶屋の治介が幼なじみの百姓の与作から、
「この鍬の柄なおしてくれ、来年の春先まででよか。
このごろ寺で刀預かって金貸すちゅうが、
おれの家にそんなものはねえ。
この鍬で少し貸してくれねえか」
と頼まれて金を渡したのは。
それが年を越しても取りに来ない。気になって治介が、
「あの鍬、欲しいちゅう者がいるが、このさい売るか」
と与作の家へ口ききに行きよった。
あれはそう、都が平城京へ遷ったころだから、
かれこれ1300年も昔のことになるだろうか。

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質(担保)取引とは。
値打ちのある品物を預かって、その人が今必要とするものを渡し、
将来返してもらって預かったものを返す。
相手が返さなかったら預かったものを自分のものにする。
これは人間の最も基礎的な行為の一つである。
人類が森からサバンナへ出、二足歩行を身につけ、
火の使用、石器の使用、土器の発明、
進化の過程でいうと、その次ぐらいに獲得した能力で、
その質能力のあるおかげで人間社会はここまで発展したのだと思う。
今でもサルは質行為をしない。
朝森でチンパンジーがゴリラから大事な物を預かってバナナを一本わたし、
夕方にパイナップルを持ってきたら返してやる、
などとやっていると聞いたことがない。

無責任に最大限大げさに言えば、
質行為とは、人とサルとを分けるものだと言える。
基本形がそれほど古いから、
人類の長い進化のどの時点をもって「質屋の起源」とするかはまことに難しい。
この問題を社会経済学から考えるか、文化人類学から論じるか、
はたまた人類の起源をさぐるDNAにおよぶ生命科学から解き明かすのか、
それほどまでに奥が深い。
そこで質屋の先人はきっとこう考えたに違いない。
「質屋」と言うかぎり「屋」である。
「屋」である限り業としての社会基盤が整い、
商いが一定の産業として自立したその時点をもって起源にしょうと。
調べるとそれがおおよそ鎌倉時代(13世紀)であった。
だから「質屋は700年の歴史」があると先輩達は言ってきたのではないだろうか。

起源をどこに求めるかは多くの場合そのとらえ方による。
むかし学校の歴史の授業では確か中国文明の歴史は4000年であると教わった。
ところがこのごろNHKのテレビでは中華5000年の歴史といっている。
これは中国の歴史は4000年だが、
調べてみると中華ラーメンの歴史は5000年であったからというのではないだろう。
「中国」でとらえるか「中華」でとらえるか、
とらえ方が変わって文明をさかのぼる年月が1000年も変わったのだろう。
いや、歴史のことはよく知らないが、
それはきっと、とらえ方を変える必要が出てきたということだろう。
そうすると質屋の起源も、つまりは「質屋」のとらえ方にあるとすれば、
いま従来の鎌倉時代とするとらえ方から、
奈良時代とするとらえ方に変えるその必要とは何だろう。

    ちはやぶる神代も聞きしなりわいは物のあわれのしる人ぞとは


01.01.06 記
        饅頭を食べたんだろうか

もっとも古い記憶のなかに、親に連れられて行った古物市場のことがあります。一枚の写真のように市場でのその場面だけを憶えているのですが、季節は何となく初夏だったとおもいます。木の階段を二階へ上がると板の間で、その手すりの近くに上の面がガラスの蓋になっている30センチ四方の饅頭の入った木箱がありました。くず餅・いなか・じょうよう・おはぎ・きんつば・六方焼き。そうした美味しそうなものが並んでいました。欲しい人はガラスを開けてとり、お金は自分で下の抽斗へ入れるようになっていたのだとおもいます。この饅頭が食べたくて階段を一つ降り手すりにつかまってジィーッと見ているのです。記憶はここまでです。この先だれかが「ぼく欲しいのか」と取ってくれて私は食べたのか、結局は食べられなかったのか、それは解りません。4才ごろのことですからもう半世紀近く前のことになります。いまだに饅頭を食べる時この場面を思い出すことがあります。

アニメの連続するセル画が時間の経過とともに全て抜け落ち、何かの拍子にその中の一枚だけが出てきたように、古い記憶をまるで昔の写真を見つけたようにふと思い出すことがあります。そして一枚の古い写真の発見が嬉しいように古い記憶の遡上も楽しいものです。この楽しさは裏返せば既に多くの記憶が失われたことによるからでしょう。記録も大事だけれど忘却もまた大事ということだと思います。インターネットを情報の面から言えばいくらでもサーバーに情報を置くことできますし、現実にいま世界中が電脳空間に情報を貯め込んでいます。そして世をあげて情報とは記録し保管し管理し、その消滅を防ぐものだとしています。しかしそのことは「時」というものがこれまで記憶を忘却の淵に沈めることによって保ってきた人の心の仕組みを変えることになります。はたしてそれは進歩なのかどうか。あの時の4才の私は結局饅頭が食べられたのか、実は一生解らないことが楽しいのですから。

00.10.17 記
        公的資金 VS 質屋

もう6年ほど前になるが、当時、銀行の借入枠をひろげるために利用していた大阪府の信用保証協会から調査の電話がかかってきた。「お店の状況について幾つか質問をしたいので少しお時間をいただけますか」と担当者は宇宙飛行士の毛利衛さんを想わせるしっかりした口調で話される。私がOKすると銀行を通じて提出してあった書類に基づいて「では次は、質問の仕方を変えましょう」と専門官なのだろう手際よく書類の数字を次々と違う方向から質問される。私の頭ではこの変化についていけないが、先方の意図が何であるかはおおよそ解っている。売上高から仕入高を引いて、棚卸しの計算をしたものが店の粗利益だが、この内の質の利息収入を知ろうとしているのである。「・・としますと、この内の何々は利息収入ということになりますね」。
「ご存知でしょうが、府の信用保証制度をご利用いただくには業種に制限がありまして、金融・興行・不動産業などの方はできないことになっていまして、ご利用いただいておりましても判明した時点で見直すことになっています。質屋さんの場合はやはり・・・」
「いや、質の貸付資金ではなくウインドウで質流れ品を販売する資金に保証協会さんに枠をとってもらっているのですが」
「それが、お仕事の一部が金融業になる場合はお断りすることになっております」
「では、質屋は兼業している部分で信用保証を受けられないんですか。それでは百姓が米屋やったら駄目なんですか。坊さんが政治家になったらいけないんですか。」 ??。私はいまさら何でと腹がたち支離滅裂になる。
しかし先方は静かに「いや、いいんです。お仕事は自由ですから。例えば工務店の方が建売を建てて販売するかたわら別に不動産業をやってられる場合があります。その場合、工務店としては問題ないのですが不動産業が引っかかってきて、保証協会としてはお断りするという規定になっています。融資した資金が事業のどの部分で利用されるか、お金にしるしは付けられませんので解りませんから。質屋さんだと解っていたら最初からお断りしたはずです」
「しかし最初は保証協会の人が店へ見に来られましたよ。その時だけ私は店先の「質」の看板を隠したわけではないですよ。だいたい「質」という看板の掛かっている店へ入ってきて、それで当店を何屋だと思われたのです。まさか、八百屋だと思いましたか。魚屋だとでも思いましたか」
「・・いや・・しりませんでした」。

これは後で気が付いたことだが、
申し込む時に添付した税務申告書の写しは「橋本質店」の屋号になっていたはずだ。
だいたい申込者の屋号が「橋本質店」で質屋以外にあるだろうか。
「橋本質店」という八百屋 ?
「橋本質店」という散髪屋 ?
もし、「橋本質店」という八百屋があったら、その八百屋さんはどんな野菜を売るんだろう。
もし、「橋本質店」という散髪屋があったら、どんな散髪するんだろう。


当店が府の信用保証制度を利用したきっかけはこうである。平成元年ごろ大手都市銀行から少額の融資を受けていた。当時入質が増え資金が要るのでさらに融資の増額を申し込むと、この地での商売の日がまだ浅かったからか、「銀行直(プロパー)ではできないが、このごろ府の保証協会さんを通しての融資が多くなっているので、ウインドウ販売をされている、その中古品の販売資金に協会さんの保証枠が受けられるかどうか走ってみます」と銀行の担当者が言われた。申込書を書くと後日、保証協会から調査に来られ、ウインドウの商品を見、最近15ヶ月間だったか18ヶ月間だったかの仕入れと売上額をチェックして帰られた。そして審査はパスし保証協会の融資枠が得られた。

ちょうどそのころバブルの頂点で土地も株も値上がりし百貨店では高価な宝飾品がとぶように売れていた。その直後、バブルが頂点を越えたあたりからその品物が質に入るようになり急に店としての資金需要が増し、この保証協会の枠を使い切った。それで保証枠の増額を申し込むと、今度は増額の申請書類だけで大幅に承認された。

府の中小企業信用保証協会の利用の仕方は、担保に入れる不動産に保証額の2割増の根抵当権をつけ保証額の0.7%の2年間の保証料を前払いして銀行の融資枠を得るものである。(他にも会社の規模や希望によって別の仕様もあるかも知れないが当店はこうだった)。銀行は協会の保証のある貸付だから金利を抑えてくれるし、銀行窓口で簡単に借入、返済ができるので、保証料の2年間の先払いは少し惜しいが便利だった。しかし時代はその後、バブルがはじけ、土地・株が値下がりし平成不況に入り、この保証制度を利用している商店や企業にも倒産する処が多く出ていた。そしてその銀行の不良債権が大阪府の保証協会へ請求され、大きな額(代位弁済額)になっていると新聞が報じていた。

保証協会から電話がかかってきたのはそのころであった。私としては6年余りも滞りなく保証料も銀行金利も払っているのに今さら利用資格が無いとは何事かと前半はただ腹がたった。しかし後半は冷静になりしばらく話をして質屋の現状を説明した。質屋営業の実状が多分に商品リサイクルの役割をしていること、バブル時に購入された品物が換金の目的でひとまず質入れされること、そしてその多くが流質になり扱い高が増え資金が要る割には利息収入に結びつかないこと、そして流質品の多くは古物市場で売却すること、そのことは結果一度消費された商品を再び流通経済に乗せることになることなど。そして当店は質・買い取り・販売を一体にして店づくりをして、その回路へ入っていること。その運転資金なのに何故・・・。
「言われることはそれなりに解ります」。

結局、この電話のやり取りの最後は「すぐに信用枠をうち切るということはしません、そちらもお困りでしょうから。しかし次の更新時から保証枠を減額していって下さい」ということで終わった。そして言われるように減らしてきて今では保証協会とも縁が切れた。銀行の担当者が言う、「お宅の土地の評価は現在こんなんですよ」。協会さんの根抵当権設定額より随分下だった。

バブルの最盛期に公的保証制度の活用を、質屋も銀行も保証協会も、三者それぞれに解釈して保証枠を大幅に増やした。バブルがはじけ、不良債権の増加・担保不動産の下落・府の財政赤字・などにより保証協会が引き締めを始めた。引き締めるのに協会の担当者が理由を探せば当店の場合は利用資格を問題にできた。そういうことではないだろうか。

以前から「公的融資制度と質屋」について書きたいと思ってきた。それは公的な融資制度の利用を、質屋は金融業であるあるとして排除しているのは今の時代におかしいという意見が以前から業界にあり、それをもう一度考えてみたかったからである。しかしこの問題は大きすぎて私のてこに合わなかった。だからともかく体験談を書いてみようとした。しかし振り返って考えてみると、私の場合はあくまでバブル経済を境にしての官民のいわば狂想曲なのであって、本来考えたいと思う問題の本質にはあたらないかもしれないが。

00.08.19 記
        それぞれの夏

夏の暑い昼下がり店は暇である。
お客さんが来ない、電話が鳴らない。
前の道の人通りも絶えている。
近くのお屋敷の蝉の声も一層静かさを誘うばかりである。
ただウインドウの日除けの長い帆布だけが風に揺れ、
ジリジリと照る強い日差しに変化をあたえている。
白く光るアスファルトの処々には先ほどの打ち水がまだ乾ききらない幾つかの黒い島になって残り、
どこからか蝶が来てこの島に羽を休めわずかの湿りを愉しんでいる。
夏の昼下がり、シーンとした店内から見る戸外の明るい景色は、
店が暇であればあるほど美しい。

このお盆の静かさの中で本を読もうと、
句集を見ていると質屋は冬の句に詠まれているものが多いのに気が付いた。
昔は年越しのお金の工面とか、
あるいは夏と違い冬は着物の枚数が必要だからとか、暖房がいるとか、
庶民の暮らしが冬は比較的お金が必要で質屋を利用することが多く、
それで冬の句に詠まれることが多かったのだろうか。

しかし私には「質屋」は夏のイメージが強い。
暑い最中のこの暇な静かさの中に質屋の真骨頂があるように思われる。
子供の時の記憶でも決して忙しい商売ではなかった。
もともと待ちの商いであった。
経済社会がすくい取れない金融の一部を質屋は動産担保という保管コストの掛かる、
ロスの多い方法で引き受けてきた。
だからその質屋のお客様が多くなることは反面、経済構造の欠陥と言えなくもない。
そうすると商売が忙しいことは本来、良いことなのかどうなのか。
お盆の昼下がりの余りの静かさが、
この根元的なジレンマを青空に湧く白雲のように立ちのぼらせる。

それに、そもそも商売人に成りきる阿呆と、成りきれん阿呆と、果たしてどちらが上等かと。
暇なものだからこんなことをゆっくり考えていると、
そこへ突然お客様が入って来られる。
しかし急にニコッとして「いらっしゃいませ!」なんて言えない。
今まで頭に手を当てて難しい顔をしていたのに、
役者ではないから急に表情は変えられない。
そのままの顔でお客様と顔を合わすことになる。
それで相手はギクッとされる。
もしかしたら寄り目になっていたのかも知れない。
この第一印象の悪さがマイナスになり、
結局お客様は入質しないで帰ってしまわれる。
あぁ・・、それぞれの夏。

00.06.20 記
        しまった!

もう数年前のことになる。憔悴した様子から昨夜は寝ていないと思われる50才過ぎの男の人が来店された。
「家内が出ていってから息子が遊びだし、私の留守に帰って品物を持ち出してこちらへ質入れしている。品物は息子の物だしそれはいいのだが、ただ何とか息子と話がしたい。今ならまだ戻れる。今度来たら待たせておいて連絡してもらえないだろうか」。昼間はここにいますからと示されたのは大学の教室だった。

息子さんは、以前から取引のあるお客さんと一緒に3回ほど店に来られ、お客さんの方はよく喋る人だがこの青年は物静かで賢そうな眼をしていたのを憶えている。母親が恋しいとか、寂しいとか、それで今は少し横道へそれているかもしれないが、お父さんが心配されるようにカモにされて悪いことをする青年には思えない。また前からのお客さんも遊び馴れてはいるが連れをカモにしょうというタイプでもない。二十歳過ぎの若者に一時そうしたことがあっても仕方ないし、息子が「堕ちていく」と思うあまり親父が鬱状態になることはない。学識のある人が親バカなと思い、「お父さん、ゆっくり風呂にでも入って、ビール飲んで、寝はったらどうですか」 と言って頼みを断った。そうしたら入って来たときよりもっと思い詰めた様子で店を出ていかれた。

態度が冷たすぎると後で家内が私を怒る、「お父さん、苦しいのやろ」。確かに対応が良くなかった。あのお父さんは学問もあり、おそらく頭もすごく良く、しかしどうしょうもなく苦しいのだろう。質屋は商売に熱中すると単純に物だけを見たくなる。品物の背後の事情は聞きたくないし知りたくない。仕事のシステム化を難しくする雑事には煩わされたくない。しかし例えば、外科医が患者とは切り取られ縫い合わされるべき肉片に過ぎないと考えることが医の倫理を失うように、質物とは事情を伴わない単に値踏みされる物であると考えることは質屋の内の何かを失うことにならないだろうか。

もう随分昔のことになるが先輩の質屋から、「おふくろは店先で所帯の苦労いうて泣くお客さんと一緒に泣きよるけど利息はきっちり貰いよる」という話を聞いたことがある。このお母さんは計算の上でなく実際に愚痴を聴いてあげて結果お客さんを助けておられたのではないだろうか。つらいつらいと一緒に泣いて、しかし利息を貰うことは別という商いはとても私にはできないが、質屋はこれまで金融や換金だけでなく物を介して人が寄りかかれる処であったのかもしれない。あのお父さんの頼み(来店した息子さんを待たせておいてお父さんに電話に出てもらうこと)が実際に可能かどうかは解らないが、私がそれを承知したら僅かにまだ息子と繋がっているという安らぎだけはお父さんは得られただろう。そしたら風呂へ入って、ビール飲んで、その夜は実際に寝られたかもしれない。しまった。

00.06.11 記
        まいった!

「おかあさん、ここなにやさん。おじちゃんなにしてるの」
「おじちゃん、なにしてるの?」
お昼ごろ乳母車を押して来店された若いお母さんから時計や指輪を預かって、
ルーペで見ているとカウンター越しに聞くのは、いつもついてくる3才ほどの女の児である。
「な、おじちゃんなにしてるの?」
少し話せるようになって喋るのが楽しくてしょうがない、「なにしてるの」と何度も聞く。
しっかりやさんの女児の相手は私も楽しいが、質屋としてここでどう答えたものか少し考える。
「おじさんは時計や指輪のお医者さん。病気をしてないか診ているの。
時計や指輪が元気になるまで入院してもらうこともあるよ」とでも普通は言うのだろうけれど、
しかしこの物言いは嘘で誤魔化しがあって、何か質屋自身をおとしめるようで以前から好かん。
といって、「君の好きなミキハウスの赤いズボンや、乳母車に乗っている弟さんのミルクを買うのに、
お母さんの時計や指輪が幾らのお金になるのか見ているのですよ」というわけにもいかん。

もう四半世紀も昔の前の店でのことである。
ちょうど今頃の季節の天気のいい日に、
前の旧街道を隣町の幼稚園の遠足が通るのが店の横の格子から見えた。
同じスモックを着た園児が男の子と女の子で手をつないで幾組も幾組も通る。
母親と店番していると園児が店の前で引率の保母さんに「ここはなに屋さん」と訊いているのが聞こえる。
これまで「ここはお風呂やさん」「ここは八百屋さん」と言いながら歩いてきたのだろう。
私の家の軒先の「質」の看板を見て「なに屋さん」と聞くのだが、
答える保母さんにためらいのあるのが分かる。それでも園児がしきりに「なに屋さん」と聞く。
どう答えるか注意して待っていると保母さんは、「な な 屋 さん」と答えた。
一瞬母親と顔をあわせて苦笑いしたことを憶えている。

それで話はもとへ戻るけれど、子供に説明できなことはある。
「なにしてるの?、なにしてるの?」と聞く女児に、
この場合ともかく、「お し ご と」、と答えてやる。
そしたら今度は「お し ご と、ってなに?」とくる。
ここでたいがいお母さんに怒られよる。
「座っときなさい!」
それでしばらくはおとなしくしているのだが、
そのうち乳母車の弟に姉ちゃんぶってちょっかいしはじめる。
またこの弟がイヤイヤして姉ちゃんを足で押してる。
私が「どうもおおきに」と言うと帰るのが解るのかもう扉を開けに行ってバイバイする。
そしたら弟も「僕もバイバイせんならん!」と急いで伸び上がってバイバイしてくれる。
餅のようなほっぺたをした、
およそ人に気を使うような顔をしていない男児が乳母車から振り返ってバイバイしてくれることの嬉しいこと。
まいった!

00.05.16 記
        風に誘われて

日除けを下ろそうと見上げた空の何と美しいことか。
ああ、こんな日は店を休んでどこかへ行きたいなあ。

「 勝手ながら暫く休業致します。片雲の風に誘われて漂泊の心がおこりましたので。
  休業中は利息減免、流質延期、その他お客様のお望み通り。 店主 」・・・と書けたらなあ。

これから野に山に緑の美しい季節になる。
一番いい季節に一日中店で仕事をしているなんてもったいない。
一週間ほど休んでゆっくり旅行したいなあ。
が、そんなことは無理である。
他店に例がない。笑い者になる。それに第一家内がこわい。
お客様がいつ、どのような難しい品物を持って来られる解らない。
アルバイトに任せておける仕事ではない。
やっぱり店主が一日中店番していなければならない。
天気のいい日、そんな質屋の仕事の合間にも、ふと五月の風が吹く。

以前、京都の組合業報誌の取材で伺った質店の中に、
一ヶ月のうち「7.17.27」の3日以外は絶対に休まないというお店があった。
ご主人は65才で奥様と二人で商売をしておられる。
息子さんは大手企業にお勤めで後継者はない。
店はご自分の代で終わるおつもりである。
「たまには本日休業の張り紙を出してご夫婦で旅行でもされたらどうですか」と尋ねると、
「いや毎日商売している方がいい」と言われる。
経済的には既に何ご不自由ない。
ならもう少しゆっくりされたらいいようなものだけど毎日商売に励んでおられる。
この質店を組合の業界誌で紹介するのに、
ご主人が毎日仕事に励んでおられる意味をどう書けばいいのか考えたことがある。
文章にすると、
「仕事が好きで毎日商売していると三度の飯が旨いから」では弱い。
だからといって、
「質屋を通して社会のお役に立つため」
「質屋業への熱き想い」
「男の生きざまよ」
「仏に生かされているのだからお迎えが来るまでは」
「生きるとは日々自分だけの詩を書くことです」
では真実を射抜いてない。では何だろう。プライドだろうか。
自分が今までしてきたことを無駄にしたくないからだろうか。
店を休んでお客様に不便を掛けたくないという長年の信念からだろうか。

これに対して若者の場合は取材して書きやすい。
君が頑張って商売しているのは、
「お客様を増やしたいから」「店を大きくしたいから」
「若い内に多くの勉強をしておきたいから」「親を楽させたいから」
そのように若者自身の希望が答えとして返ってくるからである。
しかし先ほどのご主人が毎日商売に励んでおられる意味はむつかしい。
以前何かの本で、「働いていれば、意味の方は神様が考えてくださる」と読んだことがあるが、
ご主人の場合は神を信じるとか仏に帰依するとかいったことではないだろう。
おそらく「意味」を問う必要などないことなのだろうけど、
どちらにしてもこの問題は私には難しい。
そして大先輩も、ふと風に誘われる年頃も、未来に希望を持った青年も、
質屋という職業の内で同居している。

00.04.15 記
        職名改善委員会

以前、NHK テレビが農村の過疎問題を特集していた。取材先の東北の村は畜産農家30数軒の内、30才以上の独身男性が20人もいるという。嫁が来ない、このままでは農業が続けられない深刻な状態にある。厩舎で取材を受けた30才代の青年が、「ここで牛の乳を搾って一生終わるのかと思うと気が狂いそうになる」と言う。その横顔をテレビカメラがアップにしていく。次の場面では夜、青年たちが村長を囲み「嫁取りキャンペーン」の実施方法を話し合っている。結局東京へ出て役所を回り街頭で訴えることになる。村長と助役と数人の青年が村の名前を書いた幟を立て OL に「私の村に一度来て」と村の案内のパンフレットを手渡す場面で終わりだった。そういう内容の番組を見て可哀想やなあと思ったが、これで東京の OL が嫁に来るとは思えなかった。そして私も10年前に京都で「質屋の日」の宣伝ティシュを配っていたことがあるのを思い出した。

「0月0日は00の日」とつけるのが流行った時代がある。質屋は平成元年から「7月8日は質屋の日」と決めて全国的に取り組むことになる。やり方は組合によって様々で、例えば横浜の組合は質店を回るスタンプラリーをして完走者に抽選で一等ハワイ旅行を贈り、高知の組合は市電を借りきって無料の「質屋号」走らすなどした。京都の組合は「質屋の日」の宣伝ティシュを繁華街で配ることになり、それで私は10年前、鴨川にかかる四条大橋の上で「京都質屋協同組合」のポケットティシュを配っていたのだが、その時これが質屋の宣伝になってお客様が増えるとは思えなかった。

むかし質屋のイメージはよくなかった。質屋とはお金に困った末に隠れて行くところ。暗い、古い、貧乏たらしい。それにちょっと恥ずかしい。そういうイメージが質屋にはあった。だから質屋の息子には自然と複雑な気持ちが生まれた。質屋の軒数がこれまで減少してきたのは、利用者が減ったからとか、商売が儲からなくなったからばかりではなく、有意な若者が一生の仕事にできるようなステータスが質屋業にもてなかったからでもある。小さな商売人の家は過疎の農家同様嫁さんがきにくい。若い娘はサラリーマンが第一希望なのだから相当覚悟しなくてはならない。息子が店を継がない。親が歳をとって働けなくなると廃業して、それがまた一層斜陽のイメージをふくらます。質屋の娘が結婚するのに百姓はいやや、商売人はあかん、質屋なんてとんでもないと言ってサラリーマンに嫁いでいった。しかし実家が質屋だとはしきりに言った。どうも質屋とは行くところでなく出たところであるらしかった。

テレビの時代劇で悪代官と結託する商人で多いのが回船問屋と、以前は質屋だった。「何々屋、お主も悪じゃのう・・・。お代官さま、これは商いでございますよ!」というあれ。小説では「罪と罰」のラスコーリニコフに殺されるのが質屋。脚本家は時代劇が書きやすいので安易に質屋を悪者にし、文豪は魂を揺さぶるのにつましく生きる質屋の老婆を殺させる。イメージが物語に利用され物語がそのイメージをまた悪くする。私は若いときにこれからは「質屋」以外の何か新しい職名をさがさなくてはと考えて組合の業報誌に書いたことがある。当時全国的にもそういう考えがあったと思う。昭和57年ごろ東京で組合広報部の全国会議があり、トップの会長さんが言われるには、「先日、電通に質屋の名前について調査を依頼した。回答は質屋さんは”質屋”以外にありませんということであった。電通の部長が”質屋”っていい名前じゃないですかという。”質屋”、この名前は我々の財産である」。

この会議から7年ほど経って、私が京都で「7月8日は質屋の日」の宣伝テッシュを配っていたころ、隣の大阪の組合の中に質屋の宣伝をスマートにやってのけたグループがあった。店が以前京都にあったのでそのころは京都の組合へ行っていた。大阪の組合は規模が大きく知り合いも少なかったのでそうではないかと思うだけなのだが、この大阪にいたグループはマーケティングの能力を持っていたのではないかと思う。作戦をブランド品に関心のある女性にしぼり、魅力的だが反面偽物が多いというブランド品の怖さを質屋の信用と目利きを使い解消することで上手に質屋にリンクさせたのではないか。その結果これまで質屋にまとわりついていた「暗さ、古さ、貧しさ」といった影を、ブランド品を求めに来る若い女性がもつ「明るさ、自由さ、可愛さ」といった快い気分がどんどん打ち消していき、あとは静かにつけた火が、野火が枯れ野を走るように全国に広まり、女性がブランド品を求める回路が「質屋」という職名の名詞の系を自動的に改善していった。

しかし質屋もここまで来るのに長かった。家の浮き沈み、企業の盛衰、職業の人気不人気。配偶者の容姿は多くその歴史を語るだろう。そして確かにこのごろ質屋の若い嫁さんはきれいな人が多くなった。過疎の村の青年達よ、今は街頭で村のパンフレットを配っていても難しいですよ。しかしテレビで見るあなたたちの顔は、都会の若者の顔よりずっといいですから、それに都会がそれほど住み良い処ではありませんから、きっと農村が見直されて人気が出ていい嫁さんが来るようになりますよ。「この村には自然があります。労働の喜びがあります」、あなたのそうした訴えが共感を持たれる時代がやって来て、経済基盤が確立すれば、その時は飛べますよ。質屋が枯れ野に火をつけて飛んだように。

99.10.12 記
        質屋の組合と質屋像

店は昔、京都と大阪の境に近い旧街道沿いにありました。京都を流れてきた木津川と宇治川と桂川が、石清水八幡宮の峰と、天王山の山塊で、両方から漏斗の先のように狭められ、合流して淀川になり大阪へ流れ下るところです。自然の多いこの八幡町(現在は八幡市)、それに田辺町(現在は京田辺市)、井手町、宇治田原町の京都府南部の4町で以前は綴喜郡でした。この郡に一つの警察署がありその行政の単位で昭和30年頃まで地元に一つの質屋の組合がありました。子供のころ聞いただけですから正確ではありませんが、この組合は組合というほど確かなものでなく行政からの回覧を廻すていどの集まりだったと思います。自転車の質預かりは防犯登録証のあるものに限る(但し、自転車屋さんの販売証明があれば可)とか、未成年者から質預かりは出来ないが、例外として地方出身の若者で雇用主の一筆があればかまわないとか、多くは行政の指導にそった、営業上の申し合わせをしていたのだと思います。当時すでに都市部には協同組合法に基づく質屋協同組合がありましたが、郡部は広い土地に店が数軒あるだけですから、質屋同士の繋がりは少なく法的な組合はありませんでした。その後廃業する店が増え、結局は当店一軒になり綴喜郡の質屋組合は自然消滅しました。

質屋は公安委員会から営業許可を得、物品を質に取り、自己の資金を貸し付けし、流質品は古物市場で売却して貸し金の回収に当てれば、それで商売ができますから、仕組みの上では特に組合を必要としません。私の店もその後、昭和40年過ぎまでどこの組合にも入らず、質流れ品は京都や大阪の古物市場で売却して、それで商売に支障ありませんでした。ところが昭和43年頃になると電話を担保にお金を貸して欲しいというお客様が増えてきました。当時は一般家庭に本格的に電話がつきはじめた頃で、電話を使いながら担保に入れ、簡単に5〜10万円のお金が借りられる電話金融は、手軽な庶民金融として多くの人に利用されつつありました。また背後の丘陵地が大阪・京都のベットタウンとして大規模に開発され、人口が増える時でもありました。お客様の中から電話を担保にお金を貸してもらえないんだったら、品物を預けるのも京都市内や大阪の質屋に行きますからと言う人が出てきました。それで電話金融をするには協同組合に入らなくてはできませんので、京都市を中心に組織されている質屋協同組合に入りました。

この電話金融は「電話加入権質臨時特例法」に基づくもので、電話局でお客様の電話に質権を登録できる資格が、銀行、信用金庫、農協・・など協同組合以上、と法律で決まっていて個人ではできません。電話の質権は電話一本に二重に設定できず、不動産のように二次抵当、三次抵当はありません。ですからお客様は複数の業者から重複して借金をすることはなく、質屋の利用と同じで自然と借金に歯止めが掛かり、その意味で質屋の商いに向いていました。この電話の質権の登録の仕方は三者契約でして、質屋がお客様に貸すお金を組合から借りる形にして、その保証にお客様が自分の電話に質権を付けて債権者である組合に担保として入れる、という方法をとります。質権を登録できる資格者が協同組合ですのでこの方法をとらないと仕方ないらしいです。そして質屋が手続き上組合から借りた金額(質権設定額)に対する一定の利息と事務手数料を組合に納め、それが組合本部の収入になるわけです。ところが最近この電話金融が電話加入権の相場の下落により壊滅的な状態になり、この収入に多くを依存してきた組合の財政がどこも厳しくなっています。

多くの都市に質屋組合があり、それぞれの組合には独自の歴史があります。私の知っている京都の組合を例にとりますと、現在質屋の軒数は70軒ほどで立派に本部事務所を構えています。しかし以前、京都市内に質屋が400軒もあった昭和30年頃には、組合事務所はその時代の理事長さんのお宅にあって簡単なものだったと聞いています。全国的に質屋の軒数は昭和33年ごろをピークに減ってきましたが、逆に組合の本部事務所は電話金融の事務処理の必要から拡張されてきました。組合の財政支出の多くはこの事務所の維持費です。電話金融の衰退にともない、今後事務所を縮小するのか、新たな財源を求めて事業を立ち上げていくのか、組合によっては難しい局面にあります。

(注) 質屋協同組合は「中小企業等協同組合法」に基づき各都道府県で認可された団体です。他に、団体の性格、目的、体制などにより、法律も監督官庁も異なる各種の協同組合があります。しかしここでは「協同組合」で括って進めます。また消費者を対象にする生活協同組合のことは別とします。

協同組合には多くの業種がありますが、大きく二つのタイプに分けられると思います。一つは生産に係わる事業者が組織する協同組合です。例えば農協とか漁協とか、その中でも特に生産品がブランド品である組合、例えば西陣帯とか大島紬とかの協同組合、三輪素麺もそうした協同組合の商標でしょうか、他にもたくさんそういう組合があると思います。これらの組合では生産品の品質を保証しブランドを高めることで、市場性を持たせ商品価値を上げ、それで労働の生産性を高め、傘下の組合員の生活の安定を目指します。こうした組合と組合員との結びつきは、ブランドイメージが落ちれば死活問題ですから当然強いでしょう。また農協や漁協も肥料や網などの斡旋とか、技術指導とか漁業権の問題とかを通じて、組合と組合員との繋がりは深いでしょう。一方、例えば町の散髪屋さんの協同組合のように、よくは知りませんが保健所からの回覧を廻すとか、定休日の申し合わせをするとか、整髪料の一括購入をして小分けして安く組合員に斡旋するとかで、協同組合としては比較的繋がりは薄いのではないでしょうか。

質屋の組合は本来この散髪屋さんのものに近い職域としての協同組合ではないかと思います。それが近年は電話金融をするために法律上組合を経なければならないので比較的繋がりの強い組合になったのだと思います。電話金融がなくなりつつある現在、本来の質屋協同組合の体制に戻るのか、古物の生産事業者の協同組合へと移行して行くのか、それぞれの組合の事情もあり難しいところです。それでこれから先、組合が質流品の流通に取り組む場合について考えます。

現在質屋は全国では5000軒近くあります。例えば京都で70軒、大阪で500軒。そして各々の店は質流品の生産拠点でもあるわけですから、この質屋組合は同時に強力な中古品の生産ネットワークになります。この組織をつかんだ者が古物業界の覇者になるのは間違いないでしょう。そこで組合がこのネットワークの内に、質流れ品を有利に扱える立場を用意し、その権利を特定の業者に売りながら手数料収入を得るという方法があります。質流品をガソリンにして、それを古物屋さんというターボエンジンで燃やして走ると、質屋組合という車はよく走ります。ただこの方法の欠点は、組合が今まで生産に係わる組織でなかっただけに、こうした仕組みに十分な知識がなく、組合の運営が質流れ品の争奪のテーブルの上で廻ることになりかねないことです。組合が質流れ品を有利に扱える立場をどの古物屋さんに与えるかをめぐって、組合員である質屋がいわば利権の渦に巻き込まれることが起こらないとも限りません。

また組合を生産システムとしてつかんだ古物屋さんは、当然商売ですからより多くの質流品を求めてくるでしょう。その時、一質店主でもある組合の担当役員はどこまで対応できるでしょう。そこから「この組合財政の緊迫の折、組合の理事たる者が組合を通さずに自店の流品を売るとはあるまじき行為だ」とする意見が出て来ないとは限りません。そうしますと組合の財政を介して一部の古物屋さんが錦の御旗を持ち、組合を通して売らない質屋は賊軍になります。このことは質屋にとって一番大事な、流質品の処分権はあくまで当該質屋にあるとする大原則に圧が掛かることになります。

今から30年ほど前、電話金融が質屋業界で伸び盛りの時代に、組合やその全国組織の中枢へ上って苦労をされた人はきっと電話金融の得意な質屋だっただろうと思います。その時代の一般的な質屋の法律知識を越えた、電話金融に必要な書式能力の高い組合員だっただろうと思います。そうした人の法律知識や緻密な能力を、多くの質屋は同じ組合員というだけで無償で受けたわけです。次の時代、質屋が物品売買へと傾斜して行くとき、この組合組織の中枢へ上ってくる人はきっと古物屋さん的な質屋、あるいは質屋の許可を持っている古物屋さんでしょう。今度はその人の商品知識や販売力の影響を受けることになるのですが、前と決定的に違うところは、今度はその人達と組合員との間に取引が入るということです。これはこれから業界が背負っていかなくてはならない難しい問題です。

この問題について、「これからは共生の経済です」、とする考えはできます。しかしこの共生の仕方は難しいです。以前、質屋の業界誌に「アメリカ質屋探訪記」が載っていました。アメリカの州だったか市だったかで、質屋の組合長を訪ねたら「その人物は古物の組合長も兼ねていた」と書いてありました。社会の成熟にともない消費者金融が、動産担保から信用保証へと移り、質屋の仕事が文字どおり物品売買と一体になった先の形です。そしてアメリカの質屋はその方向へ行って、少し社会に背を向けた特別な世界を作り、その反動として州によっては法律にがんじがらめにされ衰退していった歴史があります。日本ではそうなる可能性は少ないとしても、質屋組合と古物屋さんが下手に手数料収入と利権で繋がると、何かおたがい大事なものをなくしてしまうのでは、どちらもその内堕落するのではないかと、そんな懸念を持ちます。これまで日本の質屋は、古物屋さんと協力しながらも基本的に切磋琢磨してきました。おたがい下手なことはできないという張り合いが、共に業界の健全性を保ってきました。この良い関係をこれからも持ち続けるには、組合内に特定の古物屋さんが質流品を有利に扱える立場を作らないことだと思います。

これまでの組合は組合員である質屋にとって居心地の良いところでした。個々の質店の店主としての矜持と、営業の自由を最大限尊重し、強制や罰則とは無縁の世界でした。昔の農協のように生産者米価を国に押しつけるような団体でなく、特定の政治家を支援して既得権を守る集団でもありませんでした。いわば職業を同じくする者が日々の仕事に励む、その気持の核としての集まりでした。人の家が正月に新春を祝い、節分に豆を撒き、お盆に祖先を供養し、節を区切り暮らしていくように、組合も5月に総会を開き、6月に全国的な集まりを持ち、7月に「質屋の日」の催しをし、定期的に業報誌を発行して、ちょうど川が流れるようにして、澱みのない健全な業界を維持してきました。組合本体は少しゆっくりしたところがありますが、だからこそまた皆さんが「ご苦労さんです」「お世話様です」と言いながら組合行事に参加できたわけです。傘に例えたら心棒が組合で骨によって個々の質屋が繋がっていて、行事の時にはパッと開くということです。

いま質屋の仕事が徐々に金融から売買へと移行しています。そして質店の業績はいかに多くの商品情報を獲得できるかに係わってきています。その結果これまで以上に組合は情報発信基地として重要になってきました。その組合の変革を模索する内で、これまで組合がとってきた護送船団方式を見直す考え方があります。しかし質屋の組合はこれまでのように同業者の利益を守る緩やかな集まりでいいと思います。仮に個々の店の営業実績が拡がり「質屋」で括る範囲が広くなっても、組合はそれを大きく包んで遅れる人を切り捨てないで、これまでのように護送船団方式でいくべきです。仲間が切り捨てられないのを見てきたからこそ組合に求心力がはたらきました。そして傘に例えれば、骨がバラバラにならないからこそ質屋は雨風をしのげてきました。戦略論としては前線が細く長く伸びれば戦力は弱まります。しかし質屋が次の時代にも支持されるためには、これまで質屋を支えてきたその町固有の風土を無視することはできません。「質屋のある風景、我が日本!」というわけではありませんが、それぞれの町にその町の人達が必要としたいろいろな質屋があって、それで全体として質屋が強くなれるのだと思います。

これからの質屋組合を考えることは、将来の質屋像を考えることへと繋がります。21世紀の質屋像を私ははっきりとは思い描けませんが、しかしそれは才覚や目先の鋭さを必要とするものではないと思います。これまでの質屋の歴史とは、つまり才覚者が出ていった後に残った者がつくった歴史ではなかったでしょうか。江戸時代に才覚のある者は大名貸しをやり両替商になり、近代に入り銀行になり財閥へなっていきました。米屋になり、造り酒屋になり、大きな地主になっていった者もあります。いつの時代も残った者が質屋だと言えます。現実に戦後しばらく質屋をやっていた遣り手の人達が、その後社会が落ち着くにつれ目ざとくサラ金へ転向して大きくなり、一方、取り立てといったことが性格に合わない者が、動産を扱う者として残ったのが戦後の質屋の歴史でもあります。

以前先輩から、質屋と金貸しの違いについて聞いたことがあります。
「夜飲みに行って帰り道で小便がしたくなる。しかし家が建て込んでいてどこにも空き地がない。ここで漏らしたらズボンが汚れる。一張羅の背広がだいなしや。だけどもう我慢できひん。しかも悪いことにポリボックスの前でお巡りさんが立ったはる。ここで、漏らすのが質屋で、立ちションするのが金貸しや。立ちションしても軽犯罪法違反やから、せいぜい始末書ですむ。漏らしたら何万円もする背広がパーや。だけど質屋は漏らすねん」

こうした要領のわるさ、律儀さ、それに下手な正義感。この質屋像が愛嬌になってこれまで世の中に受け入れられてきのではないでしょうか。このように質屋が少しボーッとしているのと、その組合が少しゆっくりしていることとは、どちらが原因でどちらが結果かよく知りませんが確かに関係あるように思います。21世紀にもこうした質屋像が受け入れられるかどうか分かりませんが、しかし私はこの質屋気質に頼るしかないようにも思います。もし、目先の鋭い才覚者だけが残ったら、次の時代、社会は同じように質屋を支持するでしょうか。

商売人にとって世の中が激しく動く時代ほど商機があると言えますが、またそれだけ職域をまとめる協同組合には難しい時代でもあります。これからの社会では資源や環境問題がより重要になると思います。そのキーワードのリサイクルの分野で質屋業界の才覚者が新たな産業の旗手として巣立つかもしれません。しかし過去にそうであったように飛び立った者は既に質屋ではありません。百貨店や銀行やサラ金が今ではそうでないようにです。その意味で質屋とは偉大な宗家かもしれません。そして私は残り組になるとおもいます。

99.06.28 記
        待って・・

店に一番多くかかってくる電話は「待って」です。
「流さんといて、近いうちにいくさかい」という電話です。
来店を延ばされる理由は、忙しくて、忘れてて、出張で、祝いごとがあって、
入金が遅れて、支払いがあって、など様々です。
ほかに、サイフ落として、風呂で滑って、階段から落ちて、というようなのもあります。
中でも特に多いのは風邪ひいてです。
電話をとるといきなり「ゴホン」で、そのあと咳が続き、
最後にかすれた声で「風邪ひいて」と言われます。
しかし受話器の後ろのざわつきから、
とても家で静かに養生しているように思えないことがあります。
それでも質屋としては、お大事に、と言わないと仕方ありませんから、
風邪の守備範囲には医学から社会学まで幅広いものがあると思います。
 
よく病は気からと言いますが、この気と、風邪の風とはもともと同根ではないでしょうか。
気分、気持、風韻、風趣、すべて何であるとは捉えにくいものです。
薫風と言えば気分の良いことを言いますし、
風邪と言えば昔は体に悪さをする邪悪なものを言いました。
科学が発達し銀河系の遙かかなたの惑星が何百年後に地球に何万キロに接近するのを、
気の遠くなるような膨大な計算から導き出せる現代にあっても、
なお身体には解き明かせない謎があります。
解明できないもの、また時には解明しない方が良いことを、
人は昔から気や風と言って折り合いをつけてきたのではないでしょうか。

だから質屋では、「待って」が何でも通用すると言うのではありませんが、
そこは質屋、気や風をあえて解明しないでお客様のご希望にそうようにします。
折り合いについては「質屋700年の歴史」があります。
「利息を入れたいけど風邪ひいて」と電話があれば、
たとえ後ろでパチンコの音がしていても「お大事に」と言います。
前は「サイフ落として」、今度は「スリにおうて」と言われようと、
きっとそのお客様の周りでは、
そうしたことが他の人より多く起こるのだ、と思うことにしています。
質屋は担保品が倉にあるのであせりません。
ですからサラキンのようにせっつきません。
期限のきたものを質屋はお客様が流されるものとして流質処分します。
結局流すか流さないかはお客様の気持次第ともいえます。
「待って」で質屋は流質を猶予しお客様には余裕が生まれます。
これが普通の金融機関ですと猶予は債務の追加になり結局お客様の余裕にはなりません。
質屋のいいところは最終的に流すことによってお客様の債務は一切なくなるところです。
ですから待った末に流されたら質屋は待ち損です。
「待って、待って、と言うので待ってたのに結局流すとはひどいやないか」とは、
質屋も思いますが、口には出しません。

昔の質屋の店先というと、お客様は高く貸してと言い、
質屋はせいぜいこれがいっぱいですと答える、そういうイメージがあります。
人生の辛酸をなめてきたお客さんと、
経験をつんだ質屋の主人のやり取りは丁々発止、
−売り手は高く売りたい買い手は安く買いたいは人の本性にしてそもそも商売の根本なり−
そんな感じがします。
私の知っている時代でも、
カウンターの向こうから上手に質屋を口説くお客さんがいました。
「もう少し何とかならへん。たのむわ。いるねん」。
「な、必ず出すさかい」。
「じゃ、しょうがないですね」、などとやっていました。

しかし近頃はそうしたやり取りはなくなりました。
あっさりしていると言うか、シビアになったと言うか。
お客さんも生活に困って品物を持って来ているのではありませんから、
付けた値段が気に入らないと「あ、そう。やめときます」だけです。
質屋としては値付けが一発勝負で駆け引きといったのが入り込む余地がありません。
カウンターを挟んでお客さんが暮らし向きを持ち出して無理を言わないのですから、
質屋も、これは難しいんです、これは得意じゃないんですとは言い訳できません。
質屋として、最高の金額を一回言えるのみです。
こうなったことは質屋にとって厳しい面もありますが、
若い主婦が昔のように対面で買い物をするのを嫌う時代ですから、
質屋を知らない若い人にも利用してもらいやすくなり、
かえっていいことだと当店では思っています。

しかし最近、若い人が喋らないので困ることがあります。
黙ってカウンターの上に時計やバッグを、置くだけの人がいます。
幾らお入り用ですかと聴くと「幾ら?」、だけです。
幾ら幾らですと言うと「じゃ!」、だけです。
じゃ、それでいいのか、じゃ、やめておくのか、それも分かりません。
次に、質に預けられますか、それとも売られますかと聴くと、
自分はどうしたい、と考えがまとまらないのか反応がぼやけます。
そういうとき質屋もどう対応していいのか戸惑います。
サラキンの無人契約機の影響でもないでしょうが、
以前と比べて若いお客様に表情がなくなったと思います。

このように店先では事務的になり、無理を言うお客様は減りましたが、
相変わらず「待って」の電話は多くあります。
お客様の気持としては、手放したくない、今は使わないがやはり惜しい、
将来値が上がるかもしれない、近い内にお金が入るかもしれない、
それやこれやでもう少し考えてみたい・・・で、「待って」と。
この「待って」に、質屋が時代を超える強さがあるように私は思います。
お客様は、利入れしなければ3ヶ月後に流質するのを了解の上で預けられます。
その了解事項を3ヶ月後にいとも簡単に破って「待って」と、言う方も言う方なら、
それを簡単に「お待ちします」と、きく方もきく方だと言えます。
今の時代にそんなことが他にあるでしょうか。
でも人の思いを尊重して、できるだけ無理強いをしないで、人と人とが暮らしていける。
私はそれもいいと思うのです。

  お客様が詠める   天つ風 倉の扉を吹きとじよ 流れますのをしばし止めん

  質店主の返歌    時は今 風立ちぬ いざ生きめやも 流しなはれ 流しなはれ



99.04.23 記
        昼飯がうまい

小さな店で夫婦共働きのようなものだから昼は簡単な食事が多い。
しかしこの昼めしが一番うまい。日によって
例えば、
  アジの干物、納豆、味噌汁。
  野菜炒め、ひじき、味噌汁。
  カレーライス、あさ漬け。
  特に忙しい時は玉子のみ。つまりかけご飯。
他にいつも、おじゃこ、ワサビ漬けなどがある。
食べ方もご飯に味噌汁をかけ、じゃこをのせ、ネコマンマ。
またかけご飯に、じゃこと青菜をのせ、パアッとかき回し、一気にかき込む。
こういうのを「食」の醍醐味と言うのかと気にいっていて、
この悦楽は天皇陛下も大会社の社長も味わえないものだと思っている。
昔はこういう食べ方をしてよく母に叱られたが、
今は誰はばかることない私が主人なのだから、この喜びだけは手放したくない。
昼めしぐらい自分の好きなように食べたい。

ところが最近この食事が店の品位を落とすと内部からクレームがついた。
私のご飯をかき込む音がお客様に聞こえてみっともないと言うのだ。
パートの人は昼食に帰るので、家内と交代で食べている。
昼前後はお客さんが多いので、昼食は事務室でとることになる。
間仕切りはあるが上部はいけいけだから、
事務室の音はお客さんのおられる土間にもよく聞こえる。
静かに食べればいいようなものだが、かけご飯の美味さはスピードが大事で、
それが喉ごしを決める。
それでつい「ガァァー」とか「ヴゥァー」になる。
確かにエルメスやヴィトンのブランドイメージと、汁かけご飯をかき込む音とは合わない。

昔からご飯を食べ始めるとお客さんが来られる。
うどんはのびる、ご飯はさめる、お茶かけはふやける。
質屋は昔から職住一体の商いをしてきた。
子供の頃、家族が夕餉の膳を囲んでいるところから、店の様子が見えた。
質屋は家内制手工業のようなものだからと、
当時はお客さんの意識も、時代の感覚もそうだった。
時代は進み、客層が変わり、扱う商品が変わり、取引額が変わっても、
質屋自身に染み込んだ意識はなかなか変わらない。
考えてみると、食事どきにお客さんが来られると店へ出て、
今まで箸を持っていた手にルーペを持ち、
1カラットのダイヤを鑑定して「五十万円です」と言っているのは、
確かにすごい世界だと言える。

豊かな時代は人の心は美やお洒落に向かう。
私とはこういう人間である。
こういう考え方をし、こういう生き方に価値を置き、現にこういうスタンスで生きている。
その自分を表現したい。
自分という人間をそのように見せたい、見てもらいたい。
それで、こういう服を着、こういうバッグを持ち、こういう車に乗る。
ファションとは、そういうことだと思う。
そうして人が消費を選択していくのが本来の姿だろう。
ところがこの十年近く質屋を活性化してきたブランドブームの中には、
以前の土地や株のバブルと同じで、虚というか実質にほど遠い部分がある。
だから商いが時として虚業のような気がしてくる。
古来より質屋は社会に根をおろした実業として栄えてきた。
その時代の庶民の生活に密着した仕事として役割をはたしてきた。
しかし現在のブランドブームには一部理解しがたいとこがあり、
商材として扱うのが嫌になってくるものがある。

この時代の中では質屋もまた選択される消費対象だろう。
そこで橋本質店とは、こういう質屋であります。
こういう理念を持ち、現にこういう商いをしています。
その当店を利用されることは、お客様の心と暮らしを豊にします。
そこに当店の実業としての意義を認めたいと思っています。
それで最後は少しこじつけのようになりますが、私の昼飯のかき込む音を、
「質屋も頑張っているんだなぁー」
と思ってくださるような、そんなお客さんに来ていただきたいわけです。

99.2.22 記
         目利き論 ・・風で分かる

昭和20年代、古物の競市は長丁場だった。夜遅くなると疲れて眼を閉じている買手も多い。そんな父の頬を風が撫でた。瞬間、「となりやで!」。絹のとなり、絹でなく人絹(化繊)だというのだ。皆はその着物を正絹と思って競っていた。広げたり畳んだりする、その風で父は絹か化繊か分かったと言うのだ。「橋本はんは眼をつぶったはても分からはる」凄い目利きだと。そして伝説になった。私の若い時にも凄い目利きがいた。この古物屋は、市場で買手が値を発する一瞬前に息を吸う、その「風」を読むと言われた。ここまでくると、武蔵と小次郎の立ち合いと言うか、剣豪が編笠のしたで「ム・・できる!!」みたいな話しである。

しかしこの話、私にはどうもにおう。どちらも「風」というところが引っかかる。風という言葉は風韻とか風趣とか、その道の達人が使うことが多いけれど、もとより空気の流れなのだから掴まえどころがなく、そうだと言えばそうだと思えるし、そうでないと言えばそうでないようにも思える。まことに微妙な境地である。確かに絹か化繊か擦れる音で識別することはできる。現に大島の着物を爪でこすれば絹特有の音がする。だから父が「音」で分かったと言うのなら分かる。しかしどう考えても、眠っていて「風」で分かったとは思えない。親父は本当は眠ったふりをして、ころ合いを見計らって一芝居うったのではないか。

「風を読む」という話も、この人が不世出の目利きであることは誰しも認めることだが、まるで八卦見にあるような話だし、それに弟子が「親方は風を読まはるねん」と言うだけでご本人は笑っておられる。およそ名医というのも自分で名医だと言う人はいない。いれば、その医者は危なくてしょうがないだろう。目利きも同じで、まわりの者があの人は目利きだと言ってなれるものであって、自分で目利きだと言っても何の意味もない。そこで目利きになるためには舞台設定が必要で、それが一芝居であったり、取巻き弟子の多少のヨイショであったりするわけで、その後はまわりが担いでくれる御輿に乗っていることになるのではないか。

いやこの風を、空気の流れでなく一種の「気配」のことだと考えればまた違った解釈ができる。気配のことを劇画風に言えば、忍者サスケが「殺気!!」のことのようになってしまうけれど、しかし様子や、雰囲気、冴え、姿、顔、華、美、・・言葉では難しいが、そういったことを総合認識して私たちは値踏みをしている。そしてこの値踏みについて質屋は店先で素人のお客さん相手の商いだからゆっくりしたものだが、古物市場の修羅場で競っている人達は速くて狂いがないことが要求される。資料を参考にするとか、あれがなんぼやったさかい、これはと、ゆっくり考えている暇はない。次々競られる物を見た瞬間に買値を発しないと競り負けるわけで、しかも買値にブレは許されない。ではこの人達はどういう値踏みの仕方をするかと言いうと、物を見て幾らと考えるのではなくて、物を見たら幾らと「眼に映る」のである。物が真贋も含めて幾らの物、なんぼの物と、金額が眼にうつるのである。またそうなるように若いときから修業するのである。

宮本武蔵の「五輪書」に、剣は「見」ではなく「観」であるとあるが、それは剣の極意は相手の動きを見るのではなく観、つまり眼に映すことだということである。真剣の立ち合いで剣士の観がブレれば、それは自らの死につながるように、目利きがしのぎを削る古物の競り市で、買い手の勘がブレれば、それは己の飯の食い上げにつながる。そして歳とともに視力や反射神経は衰えていく。いや、ブレもせず、衰えもしなくとも、例えば、公儀御指南役・柳生但馬守は、そこいらの兵法者とは格が違うといった、「私は他の古物屋とは少し違うんだ」と言う歳相応の格が欲しくなってくる。またその格付けが競りにおいて有利にはたらくということがあるかもしれない。そこに「風・・」が生まれる下地があると考える考え方もできる。

売り手の質屋と買い手の古物屋が集う競り市は、参加する全員のためにできるだけ情実や利権を排除しょうとする。それはちょうど全ての人が幸せな暮らしができるように民主主義を守ろうと努力する心と同じである。ボスを作らない独裁者を許さない、結局それがみんなの利益になると経験で知っているからである。だから競り市に原則としてハンデはない。強い者が勝ち、力のなくなった者は去っていく。風というのも、つまりはその中で駆け出しのペイペイとはわけが違うんだという、「風で分かる」「風を読む」と言った異能が帯びるこの世界の別格の官位を、目利きを天職と心得る魂が暗に求めていくものではないか。

98.12.15 記
        ツールとしてのカメラ

先日、カメラ好きのお客さんから撮影旅行の楽しい話を聞きました。この方は定年退職した友達と写真の同好会を作っておられます。この間も大山から境港へ行かれたのですが、途中の弓ヶ浜での話で「5年前はいい景色があった。木造船が浜に引き上げられていて、舳先に大山のお札が張ってある。もうこの船、二度と海に浮かぶことはないな、そんな感じが出ていてよかったけど、今年行ったら全然そんな風景がない」、と言われます。それでも仲間との旅行は楽しいようです。

日経新聞に赤瀬川原平が仲間(ライカ同盟?)と撮影にいった様子を書いています。街角のふとした風景、地方のなつかしい景色、光の暖かさや風のにおいといったもの、仲間とのビールのうまさなど、人柄が出ていて面白い文章です。この人に「路上観察学入門」という著書があります。私は書評でしか知りませんが、東京に限らず都市の発展にともなって街が改修されていくと、全体が同時進行でないので、どうしてもつなぎ目の部分に古い家屋が残ります。その残った人の暮らしの歴史を感じさせる風景を丹念に拾い上げていくのだそうです。

NHK特集、「司馬遼太郎・・・街道をゆく」のタイトルは確か「風に聴く」でした。この、旅をして「風に聴く」といったことは万巻の書を読む人にしかできません。しかし誰でも旅先で「風の心地よさ」は感じられます。ただ画家なら絵筆を取るようないい景色のところでも、多くの人は風の心地よさを感じるだけで終わってしまいます。しかしその時、カメラを持っていると、その風景に意味が出てきます。風景の中から何かをくみ取って、自然とその意味をつかもうとします。つまり画家にとっての絵筆と同じで、このときカメラは見つめるツールになります。

誰しも司馬遼太郎のようにはいきませんが、赤瀬川原平の路上観察のようになら、けっこう楽しめるかもしれません。表現することは難しいですし、著すには言葉が要りますが、カメラを通しての観察は比較的し易いように思います。今のカメラブームは一過性のものかも知れませんが、カメラは「知」のよいツールだと思います。きっと、こうした考えは既に言い古されているでしょう。私は写真のことはよく知りませんし、カメラも商品としての知識しかありません。ただ先日お客さんの楽しい撮影話を聞いて、質物のカメラからこういう考え方もできるのだなあと思い書きました。もっとも質屋として確信をもって言えることは、カメラはお客さんにとって「お金」のツール、質草になると言うことぐらいですが。

98.10.21 記
        倉の中では

質屋は鑑定のプロであると同時に質物の保管と管理のプロでもあります。お預かりした品物を大切に保管することはもちろん、お客様が取りに来られたら素早く確実にお返し出来るように、質物が倉のどこに保管されているかを絶えず把握していなくてはなりません。質屋の場合、取り扱い品目が多く、大きさも形もまちまちで一概に預かった順に保管できないところに苦労があります。

整理の仕方は店によって独自のノウハウがあり、
一例をあげますと、
  「カメラはレンズなどの付属品と一緒に箱に入れて棚の上部へ」
  「ブランドバッグは箱や紙袋で保護し型くずれしないよう注意して棚へ」
  「腕時計、指輪、宝飾品は専用箱に入れて整理庫へ」
  「絵画、美術骨董品は包装して棚へ」
  「着物は専用の衣裳箱に入れて棚積み」
  「ミンクのコートはボックス内でハンガー掛け」
  「ビデオカメラは充電器などの付属品と一緒に包装して棚へ」
  「デッキ、ワープロ、パソコン、MDはクラフト紙に巻いて棚へ」
  「電子手帳などは付属品と共にナイロン袋に入れて小物雑品の棚へ」
  「ゴルフ、ギターなどは大型雑品のコーナーへ」
  「それ以外のものはその都度考える」
  「各部所では原則として日付順に並べる」
などがあります。

こうした品目別の整理以外にも、倉の中は比較的フリーにしておいて棚に何番、棚板に何号と付けてその何番何号の住所(置き場所)を帳簿に控えておくとか、特に利用の頻繁なお客さんは専用のボックスを設けて集中的に保管するとか、大筋はその店の歴史、慣習によります。またこの頃はパソコンに入力して検索できるようにするなど、他にもいろいろ工夫している店もあります。最近のように着物が減ってブランドバッグが多くなると、空いた着物の棚にバッグを並べるようになるのですが、今度はその着物の空箱の置き場所を考えるなど、スペースの取り方にもいろいろ苦労をしています。

10年ほど前になるでしょうか、カメラが減って、ビデオカメラの入質が増えた時期がありました。そうするとカメラを置いていた棚をビデオカメラが徐々に占領するようになったのですが、それが今、再び逆転してカメラが多くなりビデオの棚を占領しつつあります。中古カメラが最近ブームになっていますが、ブームになるとその品目の扱いが増えます。ブランドバッグが流行るとヴィトンやシャネルが倉の棚を占め、機械時計に人気が集まるとロレックスやオメガが倉の整理庫を満たします。ブームになると物がうごく。ものが旅に出て、なかには質屋の倉に泊まるものもあるわけです。

「必ず迎えにいくさかい、しばらくの我慢やと言われたけど。 ほんまに来てくれるねんやろか。無理やったら、流してもうてもええねんけど。ここは同じような仲間がいて楽しいし。それに、質屋はんに新しい主人捜してもらうのも悪くないし。」泊まっている物の気持ちは、案外、そんなとこがホンネかも知れません。こうなると物にとって質屋の倉は、次の主人が決まるまでの仮の宿と言えるかも知れません。

98.08.08 記
        電話加入権の相場

現在、電話をつけるためにNTTへ申し込むと、始めに72.000円(施設設置負担金)が必要です。これは外国に比べて高く、また携帯電話のそれが無料であることもあり以前から問題になっていました。ISDN回線については平成9年7月7日より、申し込み時に72.000円を支払うタイプ−1と、最初は無料で毎月の料金が640円高くなるタイプ−2とを選択するようになりましたが、この選択制度が近い将来、一般加入電話にも導入される見通しのため、市中の加入権相場が下がっています。

以前から要らなくなった電話は局へ返しに行っても、最初の申込金は返してくれませんでした。その電話を、これまで電話業者や質屋は、50.000円前後で買い取って、必要な人に60.000円前後で販売していました。新規に申し込むより安く、また加入権は品物のように古くなりませんので、要らなくなっても余り損をしないで売却でき、需要が多く、特に学生や短期利用者に喜ばれてきました。売買時には未払い料金の精算を伴うので、NTTサイドにとっても都合がよく、電話売買業は優秀なリサイクルシステムでした。

この売買の仕組みによって電話加入権は昔から利用者固有の「財産権」として広く国民に親しまれてきました。売却すればいつでもお金になり、緊急時には電話金融の担保にもなる加入権は庶民にとって大きな潜在的資産です。国も税制上、消却できない資産としてこれまで財産権であると認めてきました。また数年前まで申込金の70%ほどで売却できたので、電話をつけたという人も多くあります。このため加入権相場を下げる新制度の導入は既存利用者の利益を損なうとする意見が多くあります。

加入権相場の値下がりは利用者の資産、つまり電話を引いている全ての家庭の資産がそれだけ目減りすることになります。それでこの財産権の問題と、料金不払いのまま使い捨てられる電話を防ぐため、 NTTは新制度の導入時に「保証金」、あるいは、「基本料の前納金」として30.000円前後を徴収する方針です。以上の条件下で市中相場は需要と供給、そして様々な思わくを織り交ぜて落ち着き処をさがしています。

質屋の仕事の仕方としてはその時々に絵をかいて売値と買値を決めて行くのですが、電話加入権について次のような考え方もできます。新加入制度が導入されお客様が仮に申込金の要らないタイプ−2を選択したとしても、「保証金」、あるいは「基本料の前納金」 として30.000円前後は必要になります。また毎月の料金が640円高くなるのですから、既に72.000円の申込金を払い込んでいるこれまでの加入権にくらべ、5年で38.400円多く支払うことにもなります。そしてその後も毎月640円多く払い続けなくてはなりません。以上から、では既存の加入権の適正相場は幾らか。もちろん最終的に相場を決めるのはお客様です。

現在、NTTへ申し込むと、
  72,000円(施設設置負担金)+800円(契約料)+3,640円(消費税)= ¥76,440円 が必要です。
9月末現在、当店の、
  買い取り価格は ¥30.000円 
  販売価格は   ¥42.000円 (消費税込み)です。
買い取りは電話料金の支払いが終わった休止中電話に限ります。
売りも買いも名義変更は当店で致します。変更料は当店負担です。

98.06.01 記
        質流れ品ショッピングモール

当ショッピングモールの値段の付け方は極力、適正価格を心掛けています。ですから高い物がないように、極端に安い物もないと思います。ブランド、人気、定価、使用程度などからくる質屋の相場感にもとづいています。その品物の業者間の取引相場に、販売利益を乗せたものだと考えていただいても結構です。もともと七番街はそのような質屋の相場情報モールとして運営しております。

スーパーが客寄せのために極端に安く売ることはあります。パチンコ店が「本日開店。特別サービス」をすることもあります。しかし一般に質屋はしません。サービスと言っても結局、他で赤字分を取り戻すわけです。先者勝ちといった消費者の心理をあおって他で収支決算を合わすのは、本来、質屋の体質に合いません。スーパーは安売りするのに納品業者を叩ますし、デパートは売り出しするのに出入り業者を泣かせます。しかし質屋の場合、仕入れ先はお客様です。質屋にとって品物を持って来られるお客様が一番大事です。質屋は叩きませんし、お客様を泣かせません。ですから販売品に、極端に安い物のある筈がないのです。極端に安く売ることは、安く仕入れる、安く質預りすることに繋がります。それは質屋の自殺行為になるのですから。

橋本質店は損をする人と極端に儲ける人を作りません。適正な価格で取り、必要とされる人に適正な価格で販売します。マラソンのランナーが1キロ3分のラップを刻むように出入りの少ない商をします。ネット上の七番街も、当店のそのようなポリシーのもとに行っております。どうか以上の主旨をご理解の上、七番街をご利用下さいませ。

98.03.06 記
        ブランド もの

ルイ・ヴィトンが質屋のカウンターに登場し始めたのは平成に入ってからである。「ブランドもの」という言葉が質屋の代名詞になるずっと以前のことで、その頃、質屋の扱うバッグといえば クロコ か オーストリッチ だった。ブランドものについての業者間の相場もまだ定まらず、お客様の言われる買値を基準にして今より随分安い値で取引していたように思う。

質流れになったものや、買い取ったものをウィンドーに並べて売っていると、それを見たお客様が 「そんなのお金になるの?」 とまたブランドものを持って来られる。そのなかで、ヴィトン、シャネル、エルメス、グッチなど当代人気ブランドのものを継続的に売りに来られる方があった。そうなるとこちらも気を入れて勉強しなくてはならない。ヴィトンのカタログを取り寄せ、ブランド関係の雑誌を買い、新聞の折り込みチラシを切り抜いて実勢価格を知り、ブランドショップを覗いたりして、情報収集を心掛けた。次々に持ち込まれるバッグやサイフに積極的に値段をつけているうちに、いつの間にか店内はブランドものが所狭しと並ぶようになった。今日、インターネットでブランド品の販売まで手掛けられるようになったのも、このように質屋を育てるお客様がいて下さったからである。『店はお客様が造る』 と思う。

97.08.16 記
        グッチ バンブーバック

質流れ品のバンブーバックを販売してお客様に指摘されたのですが、取っ手のバンブーが開いていると言うのです。見るとなるほど竹が真直ぐになろうとして、継ぎ手の革を引っ張っています。グッチショップへ聞いてみると、「取っ手のバンブーは熱を加えて曲げてあるので、竹の性質上、年月とともに伸びることがあります。そのように販売時に説明して、開かないようにゴムバンドを装着しています」とのこと。しかし高級ブランド品がそんなことで良いのかと思い、「安物の傘の竹の柄でも伸びない。柄の『し』が半年して使おうとしたら伸びて『く』になっていた、なんてことは聞かないよ」と言っても、グッチの若い女の子には、どうも分からないようです。「バンブーは焼き直しするのではなく、取り替えになって有償です」と言う。

質屋は保管中の品物の自然な変化について、勿論お客様に責任は負わないのですが、流れた場合には値打ちが下がることになり、そのような意味でも保管には大変気を使います。前にバンブーバックを預かる時、太いゴムバンドが付いていたことがありますが、一般に質屋はセロテープやゴムバンドは長期の預かりになった場合、「煮え」たり「溶け」たりして質物に跡を残すことがあり嫌います。それで当店では最初何の為に付いているのか分からず外していました。今は幅広の荷造り用の紐でバンブーを結わえています。一度開いたバンブーは、紐で縛ってしばらく元のアーチにしておいても、解くとまた伸びてしまいます。それで昔、竹でソリを作ったことを思い出し、バンブーをガスであぶってすぐに水に浸けました。これでなんとか曲がり具合は調整固定出来るようです。

しかし、思います。例えば数十年前に竹で編んだ花入れが今だに何のくるいもなく美しい曲線を保っているのに較べて、これは何とつまらん製品であることかと。確かに現在ブランド品は人気があって当店でもよく売れます。しかし若い女性がこんなつまらない物に騒いでないで、真に素晴しい商品に興味を持って頂ければと思います。その方が質屋も目の利かし甲斐があって面白いのです。

95.10.10 記
        買い取り相場のお問い合わせ

買い取り相場のお問い合わせにつきましては、出来るだけ正確に詳しくお書き下さい。ただ漠然とした質問にはお答えのしようがありませんので、お客様方にて知り得る内容を出来るだけ多くお書き下さい。

お客様が病気の時、医者に「熱があるのですが何の病気でしょう」と尋ねられても、それだけでは医者も答えようが無いように、質屋も「ダイヤの指輪ですが幾らになるでしょう」と訊かれても、それだけでは値付けのしようがありません。医者は患者に問診をし、聴診器をあて、脈や血圧を計り、そして必要とあればレントゲンを撮り血液を検査して病名を絞り込みます。同じように質屋も品物を手に取ってルーペ等でみないと、正確にはお答えできません。ただ毎日が物を見て値付けをする仕事の連続ですので、医者にとって「問診」にあたる、その品物の詳しい情報をお聞かせ頂ければ、相当に絞り込んだお答えのできることがあります。お試しください。